フランスの歴史
フランスの歴史(フランスのれきし)は、フランスの過去から現在までの歩みを記したものである。
概要[編集]
ヨーロッパの西部に位置し、大西洋と地中海に面して穏やかな西岸海洋性気候と乾燥した地中海性気候を持つこの国は古代からローマ帝国等によって支配されたが、中世に入りオランダあたりを発祥とするフランク王国によって治められるようになった。フランク王国は東フランク、西フランク、イタリアの3王国に分裂し、パリを拠点とする西フランクが国としてフランクの名前を継ぎ、後に訛ってフランス王国となった。肥沃な大地から得られる農産物、海外貿易によって得られる富はこの国の文化を栄えさせ、フランス語は国際政治の共通語となった。しかし、相次ぐイギリスとの戦争と王族や貴族による贅沢な生活は国家財政を疲弊させ、それが増税に繋がり、市民革命に繋がった。フランス革命と人権宣言はヨーロッパ諸国に衝撃を与え、絶対王政の終焉を招き、さらにやや遅れてアジア諸国にも広がった。
ブルゴーニュ戦争[編集]
1477年1月5日、8000人の兵力を持つシャルル突進公はナンシーの戦いで15000人のロレーヌ軍、スイス傭兵連合軍相手に一方的に敗れて戦死し、ブルゴーニュ家は滅び、フランスの王権はフランス王だけとなった。こうしてフランスの中世は終わりを告げた。
市民革命[編集]
1688年に名誉革命によってイギリスからジェイムズ2世が亡命してきた。
エジプト遠征[編集]
エジプトはオスマン帝国の領土であったが、実際は白人奴隷のマムルークが支配していた。オスマン帝国と同盟関係のあったフランスはここでオスマン帝国との関係強化と、イギリスが支配下に治めつつあるインドとの関係を絶つためにエジプトに軍隊を送ることを決定、ナポレオン・ボナパルトをエジプト遠征軍司令官に任命した。遠征軍は途中、マルタ騎士団をマルタ島から追い出してマルタ島を占領して守備隊の一部を残し、1798年7月1日エジプトに到達した。
フランス帝国[編集]
エジプトから独断で帰国したナポレオン・ボナパルトは革命政府を倒し、皇帝となった。
普仏戦争[編集]
ドイツ軍はフランス国境に多数の鉄道路線を施設していたため、迅速に多数の将兵をフランス国境に向けることができた。圧倒的多数のドイツ軍を前にフランスは敗れた。しかし敗戦を認めないパリ市民によってパリ・コミューンが結成された。しかし、パリ・コミューンはフランス軍に敗れ、多くの参加者が命を落とした。その後、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言され、ナポレオン3世は失脚し、第三共和制が始まった。
第一次世界大戦[編集]
セルビアの青年がオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻を暗殺したことに対してオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告、セルビアと同盟関係にあったロシア帝国はオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告した。オーストリア・ハンガリー帝国と同盟関係にあったドイツ帝国はロシア帝国に宣戦布告し、ロシア帝国と同盟関係にあったイギリスとフランス共和国はドイツ帝国に宣戦布告した。
第二次世界大戦[編集]
イギリスとともにドイツに宣戦布告したものの、戦闘は始まらず、「奇妙な戦争」と呼ばれた。しかし、やがてドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻し、フランスに侵入した。ドイツ軍は各地で電撃戦で連合軍を破り、ダンケルクに連合軍を追いやって、ほとんどの将兵は武器を捨てて命からがらイギリスに逃れた。その頃、パリの最高戦争指導者会議では、ドイツに対する即時講和か、最期の一兵まで戦い抜き玉砕も辞さない徹底抗戦かで激しい議論が交わされていた。結局、パリは無防備都市宣言を行い、ドイツ軍が来ても抵抗しないように市内に伝えられた。やがてドイツ軍がパリに入り、凱旋門に巨大なハーケンクロイツが掲げられ、ドイツ軍の軍楽隊が行進曲の演奏を開始した。パリ市民はこの信じがたい光景を悲しみと屈辱で眺めるしかなかった。6月10日にはイタリア王国がイギリス、フランスに宣戦布告した。
ドイツ軍政下[編集]
アドルフ・ヒトラーは、降伏したフランス共和国の北半分をドイツ軍の軍政のもとにおき、南側を第一次世界大戦のフランスの英雄、ペタンを首班とするヴィシー政府としてドイツに協力させた。フランスの経済にドイツが呑み込まれることを恐れたためである。ドイツの支配下に下ったフランス軍に地中海航路を遮断されることを恐れたイギリス軍は1940年7月3日、アルジェリアのメルセルケビール軍港に停泊していたフランス艦隊を砲撃し、その一部を撃沈した。