オゴデイ・ウルス
オゴデイ・ウルス(1264年/1269年? - 1306年/1308年?)とは、モンゴル帝国の1つである。オゴタイ・ハン国、オゴデイ・ハン国とも言われる。なお、オゴデイ・ウルスとは当時から使用されていた国名では無く、現在の歴史上において使用されている歴史用語である。
概要[編集]
起源[編集]
この国はモンゴル帝国の初代皇帝であるチンギス・ハーンの3男・オゴデイの子孫により創始された国家である。オゴデイはチンギスよりナイマンの旧領を与えられていた。現在の国境で言うと、中国・新疆北部(ウルムチなど)、キルギスの大部分、カザフスタン南東部(アルマトイなど)に相当する。オルダ・ウルス、元、チャガタイ・ハンに接していた。
1227年にチンギスが死去した後、オゴデイは2年間の政治的な争いを経て第2代モンゴル皇帝として即位した。1241年にオゴデイが死去すると、第3代をめぐってオゴデイの長男・グユク、オゴデイの長兄・ジョチの次男・バトゥ、オゴデイの実弟・トルイの長男・モンケなどにより熾烈な後継者争いが勃発し、グユクの生母でオゴデイの皇后であったドレゲネの裏工作により何とかグユクが勝利して第3代皇帝として即位する。だが、ドレゲネが1246年に、グユクは1248年にそれぞれ没し、1251年にバトゥの支持を受けたモンケが即位すると、たちまちモンケとバトゥによる報復が始まる。この報復により、オゴデイの一族の多くが処刑あるいは追放の憂き目に遭い、残された者たちもモンケに服従する条件としてオゴデイ一族の所領を徹底的に細分化した上で相続するという厳しい処置を受けさせられ、事実上オゴデイ一族は没落した。
しかし1259年にモンケが死去すると、第5代皇帝をめぐってモンケの弟・フビライとアリクブケとの間でモンゴル帝国帝位継承戦争が勃発する。この戦争においてオゴデイの孫に当たるカイドゥはアリクブケに味方し、急速に頭角を現してオゴデイ一族の実質的な指導者に上り詰める。1264年にアリクブケがフビライに敗れて降伏した後は敢然とフビライに叛旗を翻した。このときをもってオゴデイ・ウルスの成立と見る説がある。
カイドゥは自身の実力だけでは中国のほぼ北半分やモンゴル平原を支配するフビライに対抗できないので、同じようにフビライに不満を抱くジョチ・ウルスやチャガタイ・ハン国との連携を模索し、1269年にタラス河畔で両国の君主と会盟してオゴデイ一族の復権を承認させると同時に、フビライに対抗すべく軍事同盟を締結した。これをもってオゴデイ・ウルスの成立と見る説もある。
全盛期[編集]
1270年、チャガタイ・ハン国のバラクはフビライに味方するイル・ハン国に攻め入るが、カラ・スゥ平原の戦いで大敗を喫して急速に力を失った。これを見たカイドゥはバラクを助けるべくチャガタイ・ハン国に出兵し、その直後にバラクは謎の死を遂げた。これはカイドゥがバラクを暗殺したと見られているが、これによりチャガタイ・ハン国は完全にカイドゥの支配下に置かれることになり、以後は傀儡としてバラクの子・ドゥアが立てられた。
チャガタイ・ハン国を事実上従属下において中央アジアを制したカイドゥは、以後カイドゥの乱と称される反フビライの活動を30年にもわたって繰り返した。その結果、モンゴル帝国の結束は失われて事実上分裂は避けられないものとなった。フビライが元寇において日本遠征などに失敗し、さらにその征服政策に不満を抱くフビライ配下のモンゴル貴族をひき入れ、そして1287年に元の王族であったナヤンが反乱を起こすと(ナヤン・カダアンの乱)、これに呼応してカラコルムを奪取しようとした。このナヤンの乱においては当初こそカイドゥが優勢であり、元王朝は最大の危機を迎えるも、ナヤンがフビライの攻撃を受けてあっさりと補殺されると急速に収束に向かい、カイドゥのカラコルム攻撃もフビライ配下の名将・バヤンによって防がれ、カイドゥのフビライ打倒は事実上失敗した。
没落・滅亡[編集]
1294年、フビライとバヤンが相次いで死去し、カイドゥに好機が訪れたと思われたが、フビライから孫のテムルへ順当に相続が行なわれたのを見たモンゴル貴族や反フビライ勢力が、元政権の安定化を見てカイドゥから離反してテムルの元に帰属する動きを見せ始めた。このためオゴデイ・ウルスそのものが自壊しかけたため、カイドゥは自国や中央アジアの総力を挙げて元への攻撃を開始する。しかしそれにより1301年に行なわれたカラコルム・タミール河間の戦いで大敗を喫し、カイドゥはこの戦役で重傷を負って間もなく戦病死した。
カイドゥの死後、その実権を掌握したのは彼の息子では無く、彼が傀儡としてチャガタイ・ハン国の君主としていたドゥアであった。ドゥアはカイドゥの嫡子・オロスへの相続を命じた遺言を無視して庶子のチャパルを擁立する。このチャパルは暗愚でドゥアに傀儡として利用され、1303年にはドゥア主導の下で元王朝と和睦する。その後、ドゥアに操られてオゴデイ一族と内紛を繰り返した挙句、1306年に元と通じたドゥアの攻撃を受けて所領をことごとく奪われてオゴデイ・ウルスは滅亡した。
1306年末にドゥアは死去し、チャパルは好機と見て残党を糾合して挙兵するも敗北。1308年に元に亡命して蔡州の1諸侯に封じられて1315年に死去した。
国家として[編集]
この国はそもそも国家としての体制が明確ではない。そもそも国家というより、反フビライ勢力が糾合して出来たような連合体政権であり、そのためフビライが死去すると主敵がいなくなり分裂や離反が始まっている。国家の起源にしても諸説があり、今後の研究が待たれるところである。