蔡邕
蔡 邕(さい よう、? - 192年)は、中国の後漢末期の政治家・儒学者・書家。字は伯喈(はくかい)[1]。従弟は蔡谷。外孫は羊祜、羊徽瑜。娘に蔡琰(蔡文姫)。
生涯[編集]
流罪[編集]
兗州陳留郡圉県の出身[1]。生年に関しては132年、133年の2説がある。後漢を代表する学者であるが[1]、歴史上においては後にあの董卓に何故か尊敬されて師事され、高位に取り立てられた人物として有名である。
170年に司徒の橋玄に招聘されて後漢王朝の朝臣となり、議郎に任命される[1]。178年に宦官の専横に対する意見書を上奏するがそれが逆に無実の罪を着せられて一族もろともに朔方郡への流罪となる[1]。後に大赦を受けて帰郷するが、再び宦官により揚州に追放され、結局董卓の時代まで流刑の期間は10年以上にも及んだ[1]。
董卓に取り立てられる[編集]
189年に董卓が太尉となって政権を掌握すると招聘されるが蔡邕は拒否した[1]。しかし董卓は激怒して強制的に招聘し、蔡邕もその武力には逆らえずに招聘に応じた[1]。董卓は蔡邕を敬い、わずかな期間に尚書・巴東郡太守と昇進させているが、蔡邕を中央から地方に移すことに異を唱えて上表して中央に留めている[1]。191年に董卓が長安に遷都すると、左中郎将に任命された[1]。
董卓は悪逆の限りを尽くしたが何故か蔡邕の言うことだけは比較的聞き入れている。189年に少帝を廃して献帝を擁立しようとした際に反対した盧植を董卓は処刑しようとしたが、蔡邕が助命を嘆願したため董卓は許している[1]。董卓は朝廷の宣布事項は全て蔡邕に一任し、その草稿は蔡邕が全て務めた[1]。董卓の陣営には優秀な軍人が多い反面で政治家や知識人などはほぼ皆無だったため、人気取りと人材の確保のために蔡邕を取り立てたのかも知れない。
最期[編集]
192年に董卓は王允・呂布らによって暗殺され、その死を聞いて晒された董卓の遺体を見た蔡邕は大いに嘆いたという[2]。これが王允の逆鱗に触れて非難を受けて獄につながれた[1]。蔡邕は許しを請い、罰を受けるのはいいが存命して自らが書いている史書を記すことを望んだ[1]。しかし王允は前漢の武帝が司馬遷を宮刑にして殺さなかったために誹謗の書である『史記』を作らせて後世に残す事になった前例を挙げて周囲の助命嘆願を無視して蔡邕を処刑あるいは獄死させてしまった[1]。享年は60か61。
『三国志演義』でもほぼ同じ顛末を迎えているが、処刑の原因に関しては董卓の遺体を前に涙を流した事になっている。