樊稠
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樊 稠(はん ちゅう、? - 195年)は、中国の後漢末期の武将。
生涯[編集]
涼州金城郡の出身[1]。最初は董卓に仕え、192年4月に董卓が王允・呂布らによって暗殺されると李傕・郭汜・王方・李蒙らと協力して長安に攻め込み、長安を落とすと政権を握って右将軍・万年侯となり、李傕・郭汜と3人で連合して政権を運営した[1]。樊稠と李傕の関係は君臣というより同盟関係と考えたほうがよいかもしれない[1]。
194年に馬騰・韓遂らが馬宇と謀って反乱を起こすと李利や郭汜と共に戦い、馬騰を破って馬宇を敗死に追い込んだ[1]。しかし韓遂を陳倉まで追撃した際には同郷の誼で見逃し、しばらく談笑して韓遂と別れたことを李利が李傕に密告したため、樊稠は李傕の疑いを買うことになる[1]。また樊稠らの政権運営は政治力が欠けており、兵士に略奪を許したりするなど治安は著しく悪化して市民は飢餓に苦しみ、わずか2年の統治で数十万が餓死などで死んだ[1]。
194年8月、馮翊郡の羌族が反乱したため、樊稠は郭汜と協力してこれを撃ち破った[1]。195年、樊稠は東に遠征に向かうため、李傕に兵力の増加を申し出た[1]。このことが以前から既に猜疑を抱いていた李傕に謀殺を決心させてしまい、樊稠は殺害された[1]。『後漢書』によると樊稠は勇猛で部下にも信望があったため、李傕は余り樊稠を快く思っておらず、宴席に招いた際に騎都尉の胡封に暗殺させたとある。
『三国志演義』では第3回で董卓の重臣として登場。殺害されるのは史実通りだが、その理由は韓遂を見逃した事に変更されており、それを李傕に密告したのは演義で改名している李利こと李別となっている。