閻行
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閻 行(えん こう、生没年不詳)は、中国の後漢末期の武将。別名は閻 艶[1]。字は彦明(げんめい)[1]。馬超を一騎討ちで破った武人である。
生涯[編集]
涼州金城郡(現在の甘粛省蘭州市)の出身[1]。韓遂に仕えた武人で、若い頃から勇猛だったという[1]。はじめは下級将校であった[1]。閻行の勇猛を語る逸話として、建安年間に馬騰と韓遂が対立した際の武力抗争で馬超と一騎討ちを行ない、馬超を突き刺してその矛をへし折り、折れた柄で馬超の首筋を殴って半殺しにしたと伝わっている[1]。
209年、韓遂の使者として曹操と会見する[1]。この際に曹操から犍為郡太守に任命されるなど厚遇され、閻行は曹操の器量を知り韓遂の下に戻ると曹操への帰順を勧め、韓遂もこれに従って閻行の父母と共に自分の息子を人質に出した[1]。210年に武威郡で張猛が反乱を起こすと、韓遂が討伐に赴き、閻行は留守を預かった[1]。211年、韓遂が馬超と手を結んで曹操に対して反乱を起こすと、閻行は韓遂を諌めたが聞き入れられず、この際に人質だった韓遂の家族は殺害されたが、閻行の家族は曹操が帰順させるためにその意向で殺害されていない[1]。これを知った韓遂は閻行が離反しないようにするため、自分の末娘を閻行に強制的に嫁がせて一族としたので、さすがの曹操も閻行を疑い出した[1]。214年、韓遂の命令で西平郡を統治するが、間もなく閻行は韓遂に対して反乱を起こした[1]。しかし韓遂に敗れて妻子を連れて曹操の下に出頭し、曹操から列侯に取り立てられた[1]。
215年に韓遂が数万の軍勢を率いて再度攻めて来ると閻行は逃亡するが、同年の内に韓遂は麹演・蒋石らに殺されたので窮地を脱した[1]。以後は記録に登場しない。
『三国志演義』には登場しない。