公孫度
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公孫 度(こうそん ど、又は、こうそん たく、? - 204年)は、中国の後漢末期に遼東に割拠した群雄。父は公孫延。子は公孫康・公孫恭。孫は公孫淵・公孫晃。字は升済(しょうせい)[1]。
生涯[編集]
幽州遼東郡襄平県又は玄菟郡の出身[1]。初名は公孫 豹(こうそん ひょう)[1]。玄菟郡の太守の公孫琙の早世した息子と名前が同じだったことから可愛がられ、郡吏から冀州刺史に昇進したが、流言のために罷免される[1]。後に董卓政権下で徐栄から推挙されて遼東太守となるが、領民から軽視されたため法を理由に地元の名門を100余家も滅ぼし、さらに高句麗や鳥丸も討伐してその威勢を国外に高め、自立して遼東侯・平州牧を自称する[1]。
曹操が政権を握ると上表されて武威将軍・永寧侯に封じられるが、公孫度は「俺が遼東の王だ。何が侯だ」と言ってその印綬を武器庫にしまいこんだという[1]。204年に死去し[1]、跡を子の公孫康が継いだ。
『三国志演義』では公孫康の父親として名前のみ登場する。
なお、幽州に群雄として割拠した公孫瓚と血縁関係は無い[1]。この場合の公孫姓は「諸侯(公)の孫」を意味する[1]。