関東バス 車号3200番代

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関東バス 車号3200番代(以下、3200代と表記)は、かつて関東バスに在籍した路線バス形式。115台という関東バスでは空前絶後の大量導入となり、関東バス全車冷房化達成に貢献した。また、17年間という長期にわたって使用された車両もおり、都内では異例の長寿車両となった。

概要[編集]

富士重工業製の5Eボディを架装する日産ディーゼルP-U32Kで、1964年以来の関東バスの伝統を受け継いだ3扉車。ホイールベースは4.7m。非冷房車を置き換えるため、1985年昭和60年)から1987年(昭和62年)の3年間にわたって関東バスの5営業所全てに集中的に導入された。この3200代の導入によって関東バスは冷房化率100%を達成した。3年間の導入台数は1985年48台(3201~3250、うち下2桁42と49は忌み番号とされ欠番、他の関東バス各車種についても同様)、1986年34台(3251~3284)、1987年33台(3285~3317)の総計115台におよび、当時の関東バスで第一の勢力となった。以後、関東バスで短期間にこれだけの両数が一気に投入された例はない。この影響で、以後関東バスでは1990年平成2年)まで1台も新車の導入はなかった。また、この大量導入により、3200代の置き換えが開始される時期から、関東バスの平均使用年数が延びることになった。

関東バスで5Eボディを架装した車両はこれ以前にも、1980年(昭和55年)から導入されていた車号3000番代(1997年(平成9年)全廃)が1982年(昭和57年)に富士重工が架装ボディをそれまでの3Eボディから5Eボディに変更したのに伴い、増備の途中からこの3200代とほぼ同じボディで登場していたが、3000台は一世代前のK-U31Kでボディはリベット留めであったが、P-U32Kの3200代はパネルボディーでリベットが廃止された点が異なっていた。最盛期には関東バスの5Eボディの3扉車はこの3200代が115台の他に、上述の3000代5Eボディ車が31台、3000台の長尺車(ホイールベースが5.1mで、窓1枚分ボディが長い)である車号5000番代5Eボディ車[1]1995年(平成7年)全廃。こちらも3000代と同様の理由で1982年から架装ボディが3Eから5Eに変更)57台、オートマチックトランスミッションの試験車であった車号7010番代(2000年(平成12年)全廃。こちらは日野自動車+5Eボディ)6台の総計209台という一大勢力を誇り、これらの全形式が引退した今でも、関東バスといえばこの5Eボディの3扉車というイメージが強い。

年式別による差異として、1985年式のみ車体後部にルーバーがあり、バスファンの間では「ルーバー車」と呼ばれていた。他に、1985~86年式はフロントガラスに透明緑色の「ワンマン」表示板が取り付けられており、前部ドアの右側の表示が「ワンマン入口」であったほか、座席のモケットは緑地で、独特なザラザラした肌触りのものであった。他にも、前中後すべてのドアに「自動扉」のステッカーが貼り付けられていた。1987年式はワンマン表示板が廃止され、その関係で前部ドアの右側表示も「入口」のみに変更された。座席のモケットは紺地になり、肌触りもそれまでの緑地のものより良くなった。「自動扉」のステッカーはなくなり、降車用の中扉および後扉に「ドアが開くまでステップに降りないでください」のステッカーが貼られたのみとなった。その他、車体後部左側にドアが開いているときに「乗降中」と表示する表示灯が当初より装備され、1985~86年式にも後付けで取り付けられた。また導入営業所別による差異として、武蔵野以外の4営業所に新製配置された車は車内中扉上部に各営業所別に4種類のNEC製電光式路線図(テープのチャイムと連動して作動する。表記されている停留所部分が赤くなっており、それが点灯し、運転手がテープを進める毎にチャイムと連動して移動していくもの。系統の判別はテープの冒頭で流れる信号音によって行われる。2001年頃から使用されなくなり、それ以後も残った車両については回路が切断され、その後のテープ放送内容更新の際には冒頭の信号音も流れなくなった。)を装備していたが、武蔵野に新製配置された車には取り付けられていなかった(このため、武蔵野のテープには当初から冒頭の信号音はなかった。)ほか、武蔵野・五日市街道に新製配置された1987年式車のみはテールランプが大型化された。

導入後の変化など[編集]

1994年(平成6年)10月からバス共通カードが導入されたのに伴い、運賃箱がカード対応のものに交換され、フロントガラス下右側と前部ドアの入口表示横青帯部分に「バス共通カード取扱車」の緑色ステッカーが貼り付けされた。1985~86年式車の緑地のモケットについては後に実施された延命工事により肌触りの良い2種類の新しい柄のものに交換され、1999年(平成11年)に消滅した。一方、1987年式の紺地のモケットは廃車まで張り替えられることはなかった。1999年春から関東バスの全路線車において、車両番号の前にそれまで貼り付けされていた「一般乗合」の文字を消す形で新たに営業所記号(A=阿佐谷、B=武蔵野、C=青梅街道、D=丸山、E=五日市街道)が貼り付けられたことに伴い、3200台においても当時残存していた車両について貼り付けが行われた。その他にも、2001年(平成13年)の一時期に、阿佐谷のA3285号車にラッピング広告が行われていた(外部リンク[1])。この関係でA3285号車は車体の広告枠が撤去され、ラッピング解除後も2003年10月に廃車されるまで広告枠は復活されなかった。2002年(平成14年)の日韓ワールドカップ開催に合わせ、来日する外国人への配慮として、当時残存していた車両について「Welcome to TOKYO ようこそ東京へ!」と書かれた円形のステッカーが前扉直後の席の窓に貼り付けられた。電光式路線図は、転属する場合については対応が煩雑になるため、使用していない武蔵野へ転属した車両にとどまらず、ほかの4営業所内の間で転属した車両についても、電光式路線図が使用されていた期間でも撤去されて転属していた。

廃車・延命工事[編集]

関東バスにおける平均使用年数の12年に近づいたため、1996年(平成8年)より廃車が開始された。しかし、前述のように非冷房車淘汰を目的に短期間に大量導入されていたため余りにも台数が多く、3200代を完全に置き換えるだけの台数が用意できず、相当数の車両が1998年(平成10年)から延命工事を受け、平均使用年数を超えて延命されることになった。

延命工事は1985~1986年式について実施され、延命の対象になった車両は排出ガス規制に対応するためマフラー触媒自動車NOx・PM法適合のものに交換されたほか、前述の通りモケットの張替えも実施された。あくまで短期間の使用が前提であったため、車内放送装置の音声合成装置への交換およびLED式停留所名案内表示器取り付けは行われず、関東バスでは最後まで8トラックテープで放送を行っていたほか、車内入口上部に最後までデジタル時計を装備していた形式でもある[2]。この延命工事を受けた車両は最大で17年使用され(最後まで活躍したのは2003年10月まで在籍した1986年式の阿佐谷A3258)、関東バスの営業エリアである東京都内においては排出ガス規制の関係で同期の同業他社の車両が次々と廃車となっていくなかで、晩年には東京都内の事業者でも最古参車となり、1999年のナンバープレート分類番号3桁化以後に多摩ナンバーの武蔵野営業所から練馬ナンバーの他4営業所に転属した車両(その逆もあった)についてもナンバープレートを新規に取得したため、5Eボディながら多摩(練馬)200ナンバーになった車両も存在するなど、東京都内の事業者ではライフサイクルの長いことで知られていた。

全盛期には狭隘路線の一部(荻51など)を除く全路線で活躍し、関東バスのほとんどの路線でごく普通に見られる代表的な形式だった。末期には武蔵野営業所では全盛期よりやや運用範囲は狭まったものの最後まで幅広い路線で活躍したが、青梅街道営業所では西01~03、西10、西20、西50、40系統、丸山営業所では60、高70、11系統、阿佐谷営業所では宿05、宿08、01、45系統、五日市街道営業所では中35~36、荻53~54、荻56~57、高43系統と、それぞれの出入庫系統にほぼ専用され、それ以外の系統に顔を出すのは基本的に運用変更、車両故障などによる代走の場合のみであった。(所属台数が残り少なくなった頃の青梅街道営業所の例として、3200代は8トラックテープ車のため、同営業所の本線格である北裏方面の系統では北裏、武蔵関駅、南善福寺と行先変更が頻繁に行われるため、使用するテープ数が多くなり、所属台数の割に煩雑となったため、テープ数が少なくてすむ西荻窪駅発着系統に回されていた事情もあった。)

終焉[編集]

しかし、3200代も年々強化される排出ガス規制とノンステップバスの導入によるバリアフリー化の波には逆らえず、延命工事された車両も含めて、2003年(平成15年)10月1日から実施された東京都ディーゼル車規制(環境確保条例)への対応のため丸山、五日市街道の車は同年8月22日までに、武蔵野、阿佐谷に最後まで残った4台(阿佐谷A3289、武蔵野B3297~3299)は10月1日の規制後も同年12月31日まで使用できる指定外特別許可を受けたのち、同年10月28日に廃車されたが、当時青梅街道に残っていたC3304~3310の7台についてはこの規制に対応させるためDPF(黒煙除去フィルター)が取り付けられ、フロントガラス下左側と後部窓ガラスに規制適合を示す「七都県市 粒子状物質減少装置装着 適合車」の円形ステッカーが貼付されて、これにより2005年(平成17年)10月1日からの平成17年排出ガス規制までの2年間、引き続き使用できるようになった。ちなみに、この7台は東京都内の事業者で最後まで残っていた5Eボディ車でもある。規制後もしばらく使用され、青梅街道が最後の砦となったが、ノンステップバス2100番代・2300番代の導入により年が明けた2004年(平成16年)1月14日から段階的に廃車され、同月28日をもって最後の2台、C3309、C3310が廃車となり、18年の長きに及んだ3200代の活躍に、そして1982年から21年間続いた関東バスの5Eボディ車の活躍にも終止符が打たれたのだった。

廃車後[編集]

五日市街道で使用されていたE3311~3312の2台が東京空港交通に譲渡され、成田空港内でランプバスとして現在でも活躍している(ランプバスは排ガス規制の影響を受けない)。日本観光興業に譲渡された元阿佐谷の3234号車は板橋区大東文化大学送迎バスとして使われたが、こちらも排出ガス規制の関係で廃車となった。他にも、ミャンマーに多数が無償譲渡され、大半が関東バス時代の塗装のままで、エアコンバスとして活躍している。ミャンマーは右側通行であるため、乗降口を反対側に移設した車両も存在している。

その他[編集]

3扉車以外の関東バスの5Eボディ車には1986年・1990年導入の車号500番代が14台(2003年全廃)存在した。関東バスが日産ディーゼルと共同で狭隘路線向けとして特注で開発し、後に市販モデルとなり商品化された、こちらも特徴的な形式であった。

トミーテックバスコレクションにて、3200代が製品化されている。

脚注[編集]

  1. 3000代に対する5000代にあたる長尺車(P-U32L)は本形式に対しては導入されなかった。
  2. 関東バスでは増備が再開された1990~1991年導入車(日産ディーゼル製は短尺車3400番代、標準尺車5100番代)まで8トラックテープデッキ(クラリオン製)とデジタル時計を装備しており、それらの車両は車歴が短いため1997年~1998年に行われた更新工事の際に音声合成装置への交換と停留所名案内表示器取り付けが行われ、デジタル時計は表示器取り付けに支障となるため撤去された。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]