長束直吉
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長束 直吉 なつか なおよし | |||||||||||||||||||||||||||
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長束 直吉(なつか なおよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長束氏の一族で豊臣氏の家臣。近江国内に1万石を領した大名である[1]。
略歴[編集]
はじめ兄と共に織田信長の重臣・丹羽長秀に仕える。後に兄の家臣に転籍し、各地を転戦した。天正18年(1590年)の小田原征伐では兵糧奉行を務める正家に従い、豊臣秀吉から馬廻に取り立てられた。文禄の役では肥前名護屋城に在陣し、秀吉の太閤検地においては正家と共に検地に従事している。文禄3年(1594年)に従五位下伊賀守に叙任した。慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去した際、長光の刀を授けられた[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄や弟と共に西軍に属し、正家の居城である近江水口城を守備する。しかし、9月15日の本戦で西軍は大敗して弟の玄春は山岡道阿弥に捕らえられて処刑。兄の正家は東軍の追撃を受けながらも何とか水口城まで逃げ切るが、そこにもやがて東軍の池田長吉や亀井玆矩らが現れ、所領安堵を条件にして開城するように長吉から勧められ、正家はこれに応じて開城して城を出るが、長吉により捕縛されてしまう。この際、直吉も捕縛された。そして、9月30日あるいは10月1日(11月6日)に、近江日野において自害させられたという。享年34[1][2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]