鋸引き

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鋸引き(のこぎりびき)とは、人間処刑方法のひとつである。日本の処刑方法の中でも残虐な処刑方法のひとつとして知られている。外国にもいくらかは鋸引きはあったようだが、日本の独特の処刑方法と言える。鋸挽きとする記述もある。

概要[編集]

この鋸引きは日本独特の処刑方法と言える。外国でこれに似た処刑方法としてフランスギロチンが存在するが、ギロチンの場合は首切りでも一瞬で切断して絶命するのに対し、鋸引きは死に至るまで地獄のような苦しみを与えられる。

日本ではこの処刑方法が平安時代には存在していた。ただしこの処刑が適用されるのは謀反など重罪に限られていた。もしくは見せしめのためである。

戦国時代になるとこの処刑方法は多く適用されるようになった。有名なのは3つある。

1つ目は天文13年(1544年)に当時、京都をはじめとした畿内を支配していた管領細川晴元が家臣の三好長慶の家臣・和田新五郎を罪ありとして逮捕し、見せしめのために鋸引きに処したのである。晴元は和田を一条戻橋の袂に引き立て、厳重にその身体を縛り上げてまず左右の腕を鋸でゆっくり引いて切り落とした。そしてもがき苦しむ和田を尻目に処刑人は首に鋸を当ててゆっくりと引く。こうするとじりじりと頸動脈が切断され、和田は飛び散る大量の鮮血に染まりながら苦悶の叫びを上げ続けて絶命したという。和田は端正な顔立ちの美男子であり、多くの京女性と噂になっており、そのため多くの男性から嫉妬されており、それもあってこんな残酷な処刑を行なわれたのではないかとされている。当時、公家権大納言山科言継の『言継卿記』によると「かかる苛刑は前代未聞なり」と記録している。

2つ目は元亀元年(1570年)に金ヶ崎の戦いに敗れて敗走している織田信長が、六角義賢の命令を受けた刺客の杉谷善住坊によって北近江山中の千草峠で狙撃された。信長は危うく窮地を脱し、杉谷は命からがら逃走したが、信長は執念深く杉谷を追跡し、天正元年(1573年)に浅井長政の旧臣・磯野員昌によって捕縛された。信長は杉谷を岐阜城下の往来に生きたまま首から下を土中に埋め、その横に竹製の鋸を置いた。通常なら処刑人が引くのだが、信長は往来する一般人に鋸を引かせようとしたのである。この鋸引きを一般人で引く者は多かったという。杉谷は絶命まで7日間の苦痛を味わって絶命した。なお、鋸を鉄製から竹製にしたのは、竹製のほうが切れ味が悪く、これを使用することで対象者の恐怖と苦痛を長引かせるためであったという。

3つ目は天正2年(1574年)である。三河徳川家康は当時、甲斐武田勝頼の攻勢に押されて領土を侵食されていた。その中で家康の家臣の中に勝頼に内通する者も現れだし、これは未遂に終わったものの、家康はこれ以上の内通を恐れて犯人の大賀弥四郎を見せしめのために鋸引きにした。前年に盟友の信長が鋸引きにした杉谷の前例に倣い、土中に大賀の身体を埋めて首だけ残し、その横に竹鋸を置いて一般人に引かせようとしたのである。ただし家康は信長と違い、大賀の一族をすべて捕縛して目の前で磔刑に処して、その遺体を大賀の目の前に晒すという演出も加えている。

このように、鋸引きは実力が重視された戦国時代に恐怖で支配する必要もあったことから、この処刑方法が採用されたのである。鋸引きに関しては首だけを少しずつ切り落としてゆくやり方もあったが、この場合だと頸動脈や頸椎など急所を真っ先に切り落とすことになるため、対象者にあまり苦しみを与えることなく絶命する場合が多い。このため、まずは腕や銅、肩口や股などから鋸を引いていって苦しみをさらに長時間与える方法を採用した場合が多かった。

関連項目[編集]