火刑
火刑(かけい)とは、処刑方法のひとつである。この処刑方法は世界的に採用されたことで知られている。火炙り(ひあぶり)とも言われている。
概要[編集]
この処刑方法はもともと世界的に行なわれている。特に中世ヨーロッパでは魔女裁判で「魔女」と規定された者たちが火刑に処されたことで有名である。特に百年戦争のフランスの女性の英雄で知られるジャンヌ・ダルクが著名である。
ただし通常の場合、大半は火で焼け死ぬ前に窒息死するほうが多かった。罪人を縛りつけた柱の下に枯れ草や木材を積み上げて火をつけるというやり方だが、大きな火をつけて一気に焼き殺す場合と弱火でじわじわ炙り殺すのかは処刑を命令する者の裁量によるところが大きかったといわれる。火で焼かれる受刑者は最初のうちは絶叫をあげるが、すぐに熱や煙で喉が潰れて声を失う。それでも苦しみは終わることなく続き、中には声が出なくなったところで火を消して多少元気を取り戻したところでまた火をつけることを繰り返して受刑者に絶叫と地獄の苦しみをできるだけ長く与えるようにする残虐なやり方もあったと伝わっている。
日本では明治時代になると、明治政府の命令により明治元年(1868年)に廃止された。
実用例[編集]
このやり方は、個人を処刑する場合より大量虐殺をするために向いていた。そのため、日本ではあまり採用されていなかった。この火刑が採用されたのは織田信長の時代である。信長は天正2年(1574年)に伊勢長島一向一揆を殲滅する際、長島に火をかけて虐殺している。天正7年(1579年)、信長に対して謀反を起こした荒木村重が立て籠もる摂津国有岡城を攻め落としたが、肝心の村重は逃亡してしまっていた。このため、信長は村重の一族や家臣の家族などにその憎悪と怒りを向け、磔刑のほか、火刑に処している。彼らを城外の小さな民家に押し込め、身動きのできなくなるほど人であふれた家の周囲に枯れ草を積み上げて一斉に火を放ち、焼き殺したという。