革同

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国労革同から転送)
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革同(かくどう)は、国労における共産党系の組合内派閥。革新同志会革同会議の略称。革同派革同・共産派とも[1]

概要[編集]

国労内の民同派と共産党グループが抗争を展開する中、1948年4月25日に中間派の組合活動家が第三派閥として国鉄労働組合革新同志会(略称:革新同志会、革同)を結成した[2]。中心人物は高橋儀平金政大四郎藤川勇[3]。結成時の基本的な考え方は「国労の団結と統一」「政党批判の自由」「階級性の維持」「共産党の独善性に対する批判」などだった[2]。当初は無党派が大多数だったが、のちに多数が労働者農民党(労農党)に入党し[2]、労農党員・共産党員・無党派で構成される派閥となった[1]。1957年1月に労農党が解党して社会党に合流した後、社会党や共産党に入党する者、あくまで無党派を貫く者などに分かれたため[1]、同年6月に共産派と合流し[2]革同会議(略称:革同)に改称した[1]。その後も党派の所属にはこだわらないという方針を継承し[1]、主流派の民同左派と提携あるいは対立しながら国労の中で重要な役割を果たした[2]

樋口篤三によれば、1950年代の革新同志会は労農党の公称党員約2000名の半数を占めていたが、1957年1月に労農党が社会党に復党すると、多数派は共産党に入党した[4]。沼津革同の山梨幸夫によれば、1955年7月の六全協で共産党が武装闘争路線を放棄して分裂から回復すると、国労内の共産党員の大半は再出発した革同会議に加入した。また1957年1月に労農党が社会党に復党すると、革新同志会から「少なくない仲間」が社会党に合流し、民同左派を形成していった[5]

1957年に革同派が主導権を握っていた新潟地本で組合員の処分が発端となり国鉄新潟闘争が闘われた。1964年に共産党が公労協の「4・17スト」に反対する「4・8声明」を発表したことを受け、国労では342ヶ所でスト返上決議が行われた。後に共産党は「誤りだった」と自己批判し、国労では共産党員や同調者31人が除名、89人が権利停止の処分を受けた。同年7月の国労第25回全国大会では革同の中央執行委員である細井宗一子上昌幸の指導責任が追及されたが、民同派の富塚三夫東京地本書記長の尽力によって除名処分を免れ、これがきっかけで富塚・細井コンビが生まれた[6]。1980年代に国鉄分割民営化への対応をめぐり民同派との対立を強め[7]、1986年10月の国労第50回臨時大会(修善寺大会)では向坂協会派と組んで山崎執行部(社会党主流派+太田派連合)が提案した「労使共同宣言」締結を否決、分割民営化反対の六本木新執行部を誕生させた[8]

出典[編集]

  1. a b c d e 升田嘉夫『戦後史のなかの国鉄労使――ストライキのあった時代』明石書店、2011年、82頁
  2. a b c d e 前掲『戦後史のなかの国鉄労使』34-35頁
  3. 南整『日本の人脈――労働運動のあゆみ』日刊労働通信社、1973年、127頁
  4. 樋口篤三「歴史的岐路に立つ国労と、革同=共産党の階級的責任」かけはし2000.8.14号
  5. 沼津革同 鉄路のおもい
  6. 牧久『昭和解体――国鉄分割・民営化30年目の真実』講談社、2017年、58-59頁
  7. 鈴木玲組合内政治と組合路線――国労の事例研究を通じた理論的考察
  8. 立山学『JRの光と影』岩波新書、1989年、121-122頁

関連文献[編集]

  • 本間久雄『回想に耽らず――国鉄労働運動史断章』(西田書店、2000年)
  • 革同50年史編纂委員会『国鉄労働組合運動の一翼を担って』(革同会議、2002年)
  • 牧野文夫『疾駆の記――国労時代とその後』(同時代社、2008年)
  • 山梨幸夫編『沼津革同――私見 国労沼津機関区分会のあゆみ/記録/資料』(山梨幸夫、2014年)