趙匡義

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趙 匡義(ちょう きょうぎ、天福4年10月7日939年11月20日) - 至道3年3月29日997年5月8日))は、北宋の第2代皇帝(在位:976年 - 997年)。父は趙弘胤。母は昭憲太后杜氏。妻は明徳皇后李氏。北宋の初代皇帝である太祖・趙匡胤の同母弟。は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義(こうぎ)、即位してからは(けい)に改めた[1]。廟号は太宗(たいそう)[2]

生涯[編集]

趙匡胤の時代[編集]

趙弘胤の3男。早くから後周に仕えて近衛軍の将校となり、兄を助けてその覇業を支えた[2]960年に趙匡胤が後周から禅譲を受ける際には趙普と共に陳橋の変を起こしたと伝えられている[2]。趙匡胤からは厚い信任を受け、趙匡胤の留守の最中には守備の任務を与えられ、973年には晋王に封じられその待遇は宰相より上位に置かれた[2]

976年に兄・趙匡胤が急病により崩御する。趙匡胤には息子が数名いたが、皇位は弟の趙匡義が継承した。これは趙匡胤・趙匡義の生母である杜氏が生前に後周の世宗が崩御した際に幼児である恭帝に皇位を継承させたために滅んだ故事から、遺言で皇位を若い息子ではなく成人して経験も豊かな趙匡義に譲るように遺言していたためとされる[3]。ただしこの継承にはかなりの疑問点もあり、後に千載不決の議とまで呼ばれ、趙匡義が趙匡胤を殺害したとする説もある[3][4]。なお、趙匡胤の遺児らは後年に相次いで趙匡義により暗殺失脚されている事も、この説を根強くしている一因を成している。

北宋の皇帝として[編集]

趙匡胤の時代に北宋は五代十国の時に乱立していた地方王朝の大半を打倒していたが、まだ呉越北漢のみは依然として残っていた[2]。太宗はこれらを倒して統一事業を完成させるべく邁進し、978年に呉越を平和裏の内に併合し、979年には北漢を滅ぼして五代十国を完全に終焉させ、一応の統一を完成させた[2]。その勢いに乗って979年にかつて後晋の時代に契丹)に割譲されていた燕雲十六州を奪回しようと試みるが、この戦いは北宋軍の大敗に終わり、危うく太宗も遼の捕虜になりかけたほどであった[2][1]。その後、2度目の遼遠征にも失敗して惨敗している。この2度による大敗は、後年の遼や西夏の北宋侵攻を許して将来の禍根になってしまった[4]

太宗は内政においては兄の方針を継承し、中央集権的な官僚体制の整備と皇帝独裁権の強化に努めた。五代十国の戦乱の原因になった節度使など地方政権化した藩鎮体制に終止符を打ち、最大の地方行政区画である路に運転使を置いて行政・財政・治安など広大な権限を与え、専売制度や税制も整備して国庫財政を豊かにした[4]。このため官僚の権力が強くなり、それまで権勢を振るった宦官外戚の権力は縮小された[1]

既に趙匡胤の時代から北宋は文治主義の傾向が強まっていたが、太宗自らが学者書家としても優秀で、の腕にも優れ、詩作を好む性格から、儒学が奨励されて経書の出版が促進され、百科事典の編纂が命じられるなど、その傾向はさらに強まった[1]。太宗の宮廷には学者や画家が集まり、様々な書画が収集される文化サロンを形成した[1]。だがこのため、北宋の軍隊が文治化して弱体化した事も事実であり、太宗は兵隊を社会の最下層民から雇う傭兵制を採用したものの、この軍隊の練度で北方や西方の異民族と対抗できるわけがなく、後年に北宋が異民族の侵攻に苦しめられる端緒となった[1]

皇位継承においては、亡母の遺言に従うなら太宗の弟・趙廷美が候補であったが、太宗は自分の3男である趙恒を後継者にしたため、趙廷美に何度も反乱を起こされ、またこの反乱に自分の長男である趙元佐も協力するなど、家庭的には余り恵まれなかった[1]。997年に崩御。享年59。跡を3男の趙恒が真宗として継承した。

太宗は現在の河南省の永煕陵に埋葬された[1]

家族[編集]

妻妾[編集]

男子[編集]

  1. 漢恭憲王趙元佐、母は元徳皇后李氏
  2. 昭成太子趙元僖
  3. 真宗趙恒、母は元徳皇后李氏
  4. 商恭靖王趙元份
  5. 越文恵王趙元傑
  6. 鎮恭懿王趙元偓
  7. 楚恭恵王趙元侢
  8. 周恭粛王趙元儼
  9. 崇王趙元億

女子[編集]

  1. 滕国公主(和慶帝姫)、夭折
  2. 徐国公主(英恵帝姫)
  3. 邠国公主
  4. 楊国公主
  5. 雍国公主
  6. 衛国公主趙清裕(慈明帝姫)
  7. 荊国公主(献穆帝姫

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 『中国皇帝歴代誌』創文社、2000年、P153
  2. a b c d e f g 『中国皇帝歴代誌』創文社、2000年、P152
  3. a b 『中国皇帝歴代誌』創文社、2000年、P150
  4. a b c 水村『世界史のための人名辞典』P172

参考文献[編集]