柴栄
柴 栄(さい えい、921年 - 959年)は、五代十国の後周の第2代皇帝(在位:954年 - 959年[1])。廟号は世宗(せいそう)[1]。
生涯[編集]
邪州龍岡の出身で実父を柴守礼といい、太子少保を務めた人物で後周の初代皇帝・太祖の皇后の甥である[1]。幼い頃に皇后の側に侍していた際に太祖に見込まれ、また人柄が温厚だったため養子に迎えられた[1]。即位前は太祖の命令で開平府の都長官に任命され、この時に腹心として趙匡胤を得た[2]。
太祖の一族は隠帝に殺害されていたこともあり、954年の太祖の死の直前に後継者に指名され、その崩御と共に皇帝に即位した。しかし太祖の崩御に乗じて北漢の世祖が遼と連合して攻めてきた。この際、群臣は世宗自らの親征に反対したが押し切って趙匡胤らと共に自ら親征した。この戦いは高平で行なわれ、世宗の本隊は連合軍に重囲されたが、趙匡胤の活躍によりこの連合軍を撃退し[3]、逆に北漢の首都である太原を包囲したが、この時は攻略に失敗した[1]。
世宗は太祖の遺志を引き継いで内政改革を継続し、老人や弱者、年長者を退役させて地方の精鋭を選抜して趙匡胤を長官にした強力な殿前軍と称される禁軍を編成した[1]。さらに租税の軽減や土地の開墾、治水事業から経費の節約、綱紀の粛正に努めて後周の勢力を増大させた[4]。これにより社会秩序を安定させて統一事業の基礎を築き上げた[4]。
一方で僧侶の数の増加や生産・労働力の低下が問題になっていたため、955年に世宗は仏教に対する大弾圧を開始(三武一宗の法難)[4]。これにより寺院を多数廃止し僧侶になることを禁止し、また寺院の財産を没収してそれを生産力や労働力の向上に当てた[4]。
これらの改革を背景にした世宗は、統一のため積極的な外征を開始。後蜀を攻めて四川の大部分を奪取し、955年から5回にわたって南唐を攻め[3]、淮南14州を割譲させて服従させた[5]。そして後晋以来の問題となっていた燕雲十六州の内、3州を連戦連勝の末に奪回して幽州にまで親征したが、この途上で急病に倒れて親征は中止[4][5]。間もなく首都の開封に帰還した世宗は39歳の若さで崩御し、跡を7歳の4男・恭帝が継いだ[5]。
この際、世宗は第一の腹心である趙匡胤を殿前都点検に任命して軍事の大権を預け、幼い息子を盛り立てるように遺詔したという[5]。
人物像[編集]
世宗の在位はわずか6年であるが、その間に行なわれた諸改革や遠征は結果的に次に続く北宋の統一の基礎となり、彼は五代随一の名君として高く評価されている[4][3]。