郭威
ナビゲーションに移動
検索に移動
郭 威(かく い、904年 - 954年)は、五代十国の後周の初代皇帝(在位:951年 - 954年[1])。後周の建国者のため、太祖(たいそ)と呼ばれる[1]。字は文仲[1]。
生涯[編集]
邪州堯山の出身[1]。父は郭簡(常簡)と伝わり、卑賤の出身で幼少時に母と共に郭氏を頼ったという[1]。後漢の高祖に仕え、その建国に貢献して枢密副使となる[1]。高祖の死後は隠帝に仕え、国内の内乱や遼の防衛戦で功績を立てて枢密使となり軍権を掌握し人望を集めた[1]。ところがこれを隠帝に恐れられて郭威が留守中に一族が皆殺しにされたため、郭威は反乱を起こして隠帝が兵乱の中で殺されると、隠帝の従兄弟の劉贇を立てたが、間もなく部下に推されたため劉贇を殺し、自ら即位して後周を建国した。
即位後は内政改革に務め、刑罰を緩めて訴訟を整備し、殿前の諸班を作り、軍事力を強化し、そして節度使の勢力抑制に努めた[2]。また諸事の簡素化も行なった[2]。
954年に重病に倒れた太祖は、一族が皆殺しにされていたことから自分の皇后の甥に当たる柴栄を養子にして後継者に指名し、間もなく崩御した[2]。享年51。
宗室[編集]
后妃[編集]
- 聖穆皇后柴氏
- 淑妃楊氏 − 2度目の正室
- 貴妃張氏 − 3度目の正室。後漢で処刑された
- 德妃董氏 − 4度目の正室
子[編集]
- 柴栄(養子)
- 剡王郭侗(郭青哥) − 後漢で処刑された
- 巳王郭信(郭意哥) − 後漢で処刑された
- 楽安公主(莒国長公主) − 後漢で処刑された
- 寿安公主(晋国長公主)
- 永寧公主(梁国長公主)