柴宗訓
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柴 宗訓(さい そうくん、953年 - 973年)は、五代十国の後周の第3代皇帝(在位:959年 - 960年[1])。歴史的には恭帝(きょうてい)と呼ばれる[1]。兄弟に柴宗誼、柴熙譲、柴熙謹、柴熙誨。
生涯[編集]
第2代皇帝・世宗の4男[1]。959年に父が崩御したため、わずか7歳で即位する[1][2]。この際、世宗の遺詔で趙匡胤が後見人となった。
しかし幼帝の即位は周辺諸国の攻撃を招き、960年に遼軍が侵攻してきたため、趙匡胤が軍を率いて出陣する。ところが出陣先の陳橋において趙匡胤の弟の趙匡義、腹心の趙普らにより陳橋の変が起こされて趙匡胤が太祖として即位し、開封に向けて進軍を開始する[2]。恭帝は抵抗できず、趙匡胤に禅譲してここに後周は滅亡し北宋が建国された。
この五代十国という時代は戦乱であり実力が全てであるため、多くの将兵は幼帝を擁することによる将来を不安視してこの変事を起こしたのだと言われる[3]。中国王朝は禅譲が終わると前皇帝は一族まとめて殺害されるのが通例であったが、太祖は柴宗訓を殺さず保護し、鄭王に封じた。973年に21歳の若さで房州(現在の湖北省)において死去した[1]。