焚書坑儒
焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)とは、紀元前213年から紀元前212年にかけて秦の始皇帝の時代に行なわれた言論・思想弾圧事件である。『焚書』とは始皇帝の命令で不要と判断された、あるいは秦の体制に害悪を与えると判断された書籍が焼き捨てられることで、『坑儒』とは儒学者を生き埋めにすることである。始皇帝の暴君イメージを決定的にした事件として非常に有名である。
概要[編集]
焚書[編集]
始皇帝は中国を統一すると、支配体制を封建制から郡県制に改めた。ただし体制改革に常に付きものなのが反対派であり、郡県制に対する反対派は淳于越を筆頭にして封建制への復活と郡県制に対する批判を始皇帝に上奏した。これに対して丞相の李斯は郡県制維持と封建制批判を述べたが、その際に封建制復活を唱える反対派は始皇帝の政策を非難していると強硬に主張して弾圧を提言。始皇帝もこれを受け入れて『秦記』以外の史書から医薬、占い、農業関連以外の書籍は全て焼き払うべきことを命じた(ただしこれ以外の書籍でも博士などが職責上所持している物は別とされた)。そして命令に従わない者は晒し首、一族皆殺し、禁令破りを知りながら告発しない官吏も同罪とし、30日たっても命令に服しない者は刺青をしたうえで重労働の刑に処すものとするという処置もとられた[1][2]。
坑儒[編集]
坑儒は焚書の後に行なわれた。理由は方士の裏切りによるものである。始皇帝は不老不死を求めて怪しげな方士を多数求めて色々な薬を服用したことで有名であるが、不老不死などもとより不可能であり、方士らの中には始皇帝から責任を追及されることを恐れて逃亡するものもいた。方士の逃亡を知った始皇帝は激怒し、方士から学者にかけて始皇帝を批判しているという嫌疑をかけて検察官に命じて全て査問にかけた。『史記』によるとこの時学者らは助かりたい一心で互いに罪をなすりつけ合って言い逃れをしようとしたため、始皇帝のさらなる怒りを買い、結局法令違反の容疑で460人余の学者が咸陽において生き埋めにされ、このことを全国に布告して見せしめとした。さらにこれだけでは終わらず、始皇帝は体制に批判的、あるいは禁令を犯した学者は厳しく摘発して辺境に流罪にした[3][4]。
誤解されやすい点[編集]
焚書は始皇帝の暴君イメージから全ての書籍が焼き捨てられた、と思われがちだが、実際はそうではない。始皇帝は民間に私蔵されて反体制の典拠として利用される可能性のあるものに限定しているので、始皇帝が推進する中央集権体制の維持強化を図る上である意味必要だった処置とする見解も存在する[2]。
坑儒に関しても学者らが互いに罪をなすりつけ合ったのが事実ならある意味問題であり、また始皇帝は全ての学者を処刑しているわけではない。伏生、叔孫通、陸賈、酈食其らは罪に問われず前漢の時代まで生き延びて活躍しており、無闇に弾圧したわけではないことを示している[4]。