全国金属労働組合
全国金属労働組合(ぜんこくきんぞくろうどうくみあい)は、1950年に結成された機械・金属産業の産業別単一組合。略称は全国金属、全金。1989年に全国機械金属労働組合(全機金)、全国産業別労働組合連合京滋地方連合会(新産別京滋地連)と統合して全国金属機械労働組合(金属機械)を結成した。1999年にゼンキン連合と統合してJAMを結成した。
概要[編集]
1950年10月9日結成。金属産業全体を包含する大産業別組織であった総同盟傘下の全国金属産業労働組合同盟(全金同盟)が総評発足に伴い解散し、鉄鋼・造船部門を分離した機械金属産業の中産業別組織として総評・全国金属労働組合に再編された。総同盟解体に反対する右派は全金同盟解散大会を退場し、1951年3月に全金同盟(のちのゼンキン連合)を再建した。全国金属の初代委員長は空席、初代書記長は北川義行。全金同盟の母体となった関東金属労組以来の指導者で総評事務局長の高野実が指導に当たり、高野派の中心拠点となった。1955年に高野に替わって岩井章が総評事務局長に選出されてからは総評反主流派に属した。1958年2月には産別傘下の全日本金属労働組合(全金属)と組織統一し、総評内の民間単産では最左派の位置を占めた[1]。
支部の80%は500人以下の中小支部で[2]、春闘での「西高東低」現象をつくりだした全金南大阪地協・港合同支部、組合員にかけられた解雇撤回闘争に端を発する本山闘争で有名な全金本山製作所支部、労使一体化した日産労組と闘った全金プリンス自動車工業支部など戦闘的労働運動で有名な複数の支部がある。また右寄りの労働戦線統一に反対して「全的統一」を唱え、1973年に労働戦線統一民間単産連絡会議が解散して第一次労働戦線統一運動が挫折する要因をつくった[3]。しかし、60年代半ばから70年代前半にかけて大手支部の多くで分裂・脱退が発生した[1]。1977年に佐竹五三九委員長が急逝した後、大手支部の幹部を通してIMF-JCとの結び付きが急速に強まり、路線を右へと転換した[2]。
1981年の大会の役員選出では左派グループが中里忠仁を擁立したため史上初の執行委員長選挙が行われ、この大会で選出された橋村良夫委員長、平沢栄一書記長は労働戦線統一方針を推進した。1982年の臨時大会で全民労協参加が決定され、これにに反対する中里グループは同年12月に「右翼労戦不参加・金属機械労組連絡会」(金属連絡会)を結成した。1989年1月の大会で中里グループの離脱を求める決定が行われ、中里グループは全国金属を脱退して同年2月に全日本金属情報機器労働組合(JMIU。12,000人)を結成した[3]。JMIUは全労連の結成に参加し、1994年まで全労協にも加盟していた。
全国金属は1983年3月に全民労協、1987年11月に民間連合に加盟。1989年11月9日、新産別系の全国機械金属労働組合(全機金)、全国産業別労働組合連合京滋地方連合会(新産別京滋地連)、無所属組合とともに全国金属機械労働組合(金属機械、212,000人)を結成し、連合(同年11月発足)、IMF-JCに加盟した。初代委員長は池田明和(京滋地連)、書記長は嶋田一夫(全国金属)。1993年1月に中小連絡共闘協議会(中小連協)の結成に参加。1997年9月30日に結成以来対立関係にあったゼンキン連合と組織統一を目指してJAM連合会を結成し、1999年9月9日にゼンキン連合と統合してJAMを結成した。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』(流動出版、1981年)
- 青木慧『ニッポン偽装労連』(青木書店、1989年)
- 法政大学大原社会問題研究所編『新版 社会・労働運動大年表』(労働旬報社、1995年)
- 篠田徹「再び"ニワトリからアヒルヘ"?――五五年体制の崩壊と連合(PDF)」『年報政治学』47巻(日本政治学会、1996年)
- 渡辺治『日本の時代史(27)高度成長と企業社会』(吉川弘文館、2004年)
- 高木郁朗『ものがたり現代労働運動史1 1989~1993――世界と日本の激動の中で』(明石書店、2018年)
- 岩崎馨、降籏英明『春闘の歴史と課題――労働組合の変遷とともに』(日本生産性本部生産性労働情報センター、2018年)
- 全国金属労働組合とは - コトバンク
- 全国金属(総評全国金属労働組合)[労]1950.10.9