細川忠興軍功記
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細川忠興軍功記(ほそかわただおきぐんこうき)とは、戦国時代の細川忠興に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は牧丞太夫。成立は江戸時代前期の寛文4年(1664年)3月7日[1]。
ただ、秀次事件関連の記事に「寛文9年牧丞太夫伝」とあるので、成立の5年後に著者の伝えに基づいて誰かがさらに挿入した部分があった可能性が指摘されている[1]。
内容[編集]
天正10年(1582年)の備中国高松城攻めから始まり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで忠興が豊前国を与えられるまでの戦いを年次を追って記録し、軍功を記している。形式は一つ書きで、織田信長時代の末期から豊臣秀吉の時代、そして関ヶ原までを記している[1]。
信長が討たれた本能寺の変から明智光秀の誘いを拒否したこと、秀次事件で嫌疑をかけられて晴らすのに尽力したこと、信長死後の柴田勝家と秀吉の対立、秀吉没後の豊臣政権における一連の政争などがかなり細かく記されている。ただ、忠興を主題とした軍功記であるから、関ヶ原で徳川家康の危機を救ったのは忠興であると主張している。最終的に記事は関ヶ原後の恩賞で忠興が豊前国を与えられ、12月26日に豊前国中津に到着したところで終了している。なお、一つ書きの中には「是は三斎様御拙承申候事」とあるため、忠興から語られたことを聞いた、ということになる[2]。忠興は正保2年(1645年)12月に死去しており、成立したのがその19年後なので、あり得ないことではない。
なお、この著書は忠興の著である『細川家覚書』以前の忠興の家記を補うものとして貴重であるとされている[2]。