甘利信頼

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甘利 信頼(あまり のぶより、生没年不詳)は、戦国時代武将甲斐武田家家臣

生涯[編集]

父は甘利信忠。祖父は甘利虎泰。叔父に甘利信康がいる。仮名は二郎四郎。

父の信忠が永禄年間から元亀年間に死去した際にはまだ幼少だったことから、米倉丹後守陣代を務めたという[1]

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに参加し、無事に生還していることが武田勝頼の書状から確認されている。同年6月9日には三科権兵衛尉に知行を宛がっている。その後も武田家臣として使衆などを務めたりなど活動している。

天正10年(1582年)2月、織田信長による武田征伐が開始されると、大熊長秀秋山昌成(摂津守)らと共に共に勝頼を裏切ったとされている。これは『甲乱記』の記録であるが、同書には「甘利左衛門尉」が裏切ったとあり、左衛門尉は歴代甘利氏当主の官途であるため、信頼の可能性が極めて高いと見られている。『三河物語』では勝頼を裏切ってその一行に弓矢を撃った者として大熊長秀と「甘利甚五郎」という人物を挙げており、この甚五郎が信頼を指すのかどうかは不詳。ただ、同書では長秀と婿・舅の関係にあったとされている。なお、同書ではその後の処遇については触れられていない。

ただ、昌成も長秀もその後に殺害されていることから、信頼も殺された可能性が極めて高い。

脚注[編集]