猪飼野秀貞
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猪飼野 秀貞(いかいの ひでさだ、弘治元年(1555年) - 文禄4年6月21日(1596年7月16日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智氏の家臣。後に丹羽氏、徳川氏に仕えた。
略歴[編集]
父は猪飼野昇貞。父と共に明智光秀に仕え、光秀から明智姓を与えられて明智 秀貞と称した。諱に関しては政俊、政利とも伝わるが、秀貞が正しいと思われる[1]。仮名は半左衛門。諱の「秀」は光秀からの偏諱と考えられる。
天正8年(1580年)2月4日、津田宗及の茶会に出席している[2]。12月10日にも明智掃部と共に宗及の茶会に出席しているほか、自らが宗及を招いて堅田で茶会を開催している[3]。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際、父の昇貞が光秀に従って信長襲撃に加わったのに対し、秀貞は父と袂を分かち光秀に従わなかった。光秀が山崎の戦いに敗れた後、逃亡していた明智氏の重臣・斎藤利三を近江国において捕縛する功績を立てている[4]。
その後は丹羽長秀に仕えた[5]。そして徳川家康に仕え、遠江国と駿河国において490石の知行を与えられている。家康が関東に移るとこれに同行し、天正19年(1591年)5月17日に武蔵国広木郷において500石を与えられた。
朝鮮出兵が始まると家康に供奉して肥前国名護屋城に赴く。文禄5年(1596年)6月21日に死去した。享年42。