森戸事件
森戸事件(もりとじけん)あるいは森戸辰男事件(もりとたつおじけん)とは、大正9年(1920年)1月10日に発生した思想摘発事件である。この事件により、日本政府の支配者層が治安維持法制定に向けて動き出したとされている[1]。
概要[編集]
事件に至るまでの経緯[編集]
ロシア革命が成功し、社会主義国家であるソ連が成立したことに、日本の支配者層には大きな衝撃が走っていた。そんな中で大正9年(1920年)1月、当時は東京帝国大学経済学部の助教授であった森戸辰男と、同学部の教授である大内兵衛は新聞紙法違反の容疑で東京地方裁判所に起訴された。
理由は、同学部の研究団体の機関誌『経済学研究』に掲載された森戸の論文である「クロポトキンの社会思想の研究」が、新聞紙法の第42条の「朝憲紊乱」に抵触するという理由であり、実は起訴される前の1月10日の時点で森戸は既に休職処分にされていた。大内は『経済学研究』の発行人としての責任を問われたのである。
単なる学術論文がなぜここまで大変な話になったのかというと、当時のロシア革命によるソ連の成立による支配者層の動揺に加えて、元老の山縣有朋が大の社会主義嫌いで警戒していたことにある。山県は以下のような書簡を当時の内閣総理大臣・原敬をはじめとした閣僚に送っている。
「いわゆる新思想の現今の浸透は止まる所を知らぬありさまで、このままでは帝国の前途はまことに危うい。一流といわれる学者が次々と時流に投じて民衆政治を言い労働万能を讃え、社会主義、無政府主義を唱えて衆愚の人気を得ようとしている。この状態を放置しておくべきではない」
つまり、ソ連の成立や新思想の大衆社会への浸透を見た山縣をはじめとした支配者層は、森戸の論文に過敏に反応したのである。そしてまずかったのが、森戸が「東京帝国大学の助教授」だったことである。帝国大学は当時、日本の中でも国家エリートを養成するべき教育機関だった。その教育機関に反国家的な思想が存在するということ自体が大問題だったのである[1]。
裁判[編集]
裁判では論文の中の以下の文章が問題視された。
「政治的自由の実現の爲には国家主義が改廃されねばならぬ」 「国家経済的自由の実現の爲には資本主義が改廃されなければならぬ」 「国家主義の改廃は権力の改廃を意味し、資本主義の改廃は私有財産制度の改廃を意味する」
森戸は無政府主義思想家であるピョートル・クロポトキンの言説に添う形で、これらを人類社会が到達すべき理想として提示していた。ところが裁判で、この論文はこの文章により「最早「研究」ではなく、それを逸脱した一種の政治文書」と見なされたのである。
裁判の結果、1審、2審共に森戸も大内も有罪とされ、上告は棄却。これにより、森戸は禁固3か月、罰金100円の実刑判決、大内は禁固1か月、罰金20円の執行猶予判決(2年)が確定した。
なお、罪状については1審では新聞紙法第41条の「安寧秩序の紊乱」を適用しての判決であった。そもそも、森戸は確かに国家や私有財産の改廃について述べているが、その手段や方法については全く明記していなかったので、第42条の「朝憲紊乱」は不適用とされたのである。ちなみに第41条の適用理由は「読む者に国家の統治権や個人の所有権に対するいたずらな疑惑や蔑視を呼び起こすに足る、つまり社会秩序を乱すに足る内容である」というものであった。朝憲紊乱を適用したのは2審であった。ちなみに朝憲紊乱とは「当時は絶対視されていた天皇の権威権限に基づく国政の根幹を乱した、もっというと国家転覆を企てた」というものである[2]。
その後[編集]
森戸は刑に服した後、帝国大学を辞職。大原社会問題研究所に入り、ヨーロッパに留学し、帰国後は労働者教育に従事しながら論壇で活躍。太平洋戦争で日本が敗戦すると、戦後は日本社会党の結成に参加したり、6.3制学校制度の発足、公選制の教育委員会の設置などに尽力。また、片山哲内閣や芦田均内閣の文部大臣、広島大学学長、中央教育審議会会長などを歴任し、戦後日本の教育界に重きをなした。
大内は後年になって、森戸事件について以下のように回顧している。
「森戸事件は、やがて本格化することになる思想弾圧、社会主義思想弾圧の新しいスタートであった」
ちなみに、この事件から5年後の大正14年(1925年)、戦前最悪の悪法と称される治安維持法が制定されているが、この法律の中に「国体すなわち天皇制と私有財産の比定の言説だけで、直ちに罪を構成する旨が明記」されており、つまり思想を大いに弾圧する法律がこの事件により制定されたと言えるのである[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]