松平近正

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松平 近正
まつだいら ちかまさ
性別
年齢 54
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生年月日 天文16年(1547年
生誕地 三河国(現在の愛知県
死没日 慶長5年8月1日1600年9月8日
死没地 山城国伏見城
死因 戦死
肩書き 大給松平家家老徳川氏・家臣
国籍 日本国旗.png日本
階級 上野国三ノ倉領主
後任者 松平一生(家督相続者)
子供 一生
父:松平親清、母:不詳

松平 近正(まつだいら ちかまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将徳川家康の家臣で、上野国三ノ倉5500石の領主[1]

生涯[編集]

父は松平親清で、当初は大給松平家の家老であり、家康の陪臣だったが、後に家康の直臣に昇格した。天正13年(1585年)、石川数正徳川氏から出奔する際に誘われたが断っている。天正18年(1590年)、家康が関東に入部した際に、上野国三ノ倉(現在の群馬県高崎市)に5500石の所領を与えられている[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の命令で鳥居元忠松平家忠らと共に伏見城の守備を務め、石田三成西軍が挙兵して伏見城に押し寄せて来ると、籠城して防戦にあたる。近正は松の丸を守備して自らも鉄砲を撃つなど活躍し、西軍を大いに苦しめたが、衆寡敵せずまた内部から裏切りが出て落城。しかし落城する8月1日の時点でも自ら槍を振るって敵兵を8人も討ち取る奮戦を見せた。だが、最期は攻め手の小早川秀秋配下の日夏角之助田嶋甚右衛門に討たれて戦死したという。享年54[1]

戦後、家康は近正の生命を賭しての忠誠を評価し、後継者の一生に4500石を加増して1万石の大名に昇格させた上で、下野国板橋藩に移封させて報いている[1]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P81

参考文献[編集]