松平近正
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松平 近正 まつだいら ちかまさ | |||||||||||||||||||||||||||||
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松平 近正(まつだいら ちかまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の家臣で、上野国三ノ倉5500石の領主[1]。
生涯[編集]
父は松平親清で、当初は大給松平家の家老であり、家康の陪臣だったが、後に家康の直臣に昇格した。天正13年(1585年)、石川数正が徳川氏から出奔する際に誘われたが断っている。天正18年(1590年)、家康が関東に入部した際に、上野国三ノ倉(現在の群馬県高崎市)に5500石の所領を与えられている[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の命令で鳥居元忠や松平家忠らと共に伏見城の守備を務め、石田三成ら西軍が挙兵して伏見城に押し寄せて来ると、籠城して防戦にあたる。近正は松の丸を守備して自らも鉄砲を撃つなど活躍し、西軍を大いに苦しめたが、衆寡敵せずまた内部から裏切りが出て落城。しかし落城する8月1日の時点でも自ら槍を振るって敵兵を8人も討ち取る奮戦を見せた。だが、最期は攻め手の小早川秀秋配下の日夏角之助、田嶋甚右衛門に討たれて戦死したという。享年54[1]。
戦後、家康は近正の生命を賭しての忠誠を評価し、後継者の一生に4500石を加増して1万石の大名に昇格させた上で、下野国板橋藩に移封させて報いている[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]