清泉院

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清泉院(せいせんいん、? - 寛永4年9月28日1627年11月5日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性松平忠吉正室。名は政子(まさこ)といわれる。

経歴[編集]

父は彦根藩主で徳川四天王の1人である井伊直政で長女。母は正室・松平康親の娘の唐梅院

駿河国で生まれる。文禄元年(1592年)に徳川家康の4男・松平忠吉の正室として嫁いだ。忠吉との間には慶長3年(1598年)に嫡子である梅貞童子が生まれているが、生後間もなくして早世している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで忠吉が武功を挙げて尾張国清州藩主として栄進すると、それに従って清州城に移り住んだ。しかし、忠吉は関ヶ原の戦傷と病気によりその後は臥せりがちとなり、忠吉の平癒を祈って愛知県津島市津島神社に社殿を寄進している。しかし、忠吉は慶長12年(1607年)3月5日に死去し、東条松平家は嗣子が無く改易され、清泉院は実家である近江国彦根藩の当時の藩主で同母の兄弟である井伊直勝に引き取られた。直勝が上野国安中藩に移されると、清泉院も母と共にそちらに移っているが、なぜか彦根に戻っている。

寛永4年(1627年)9月28日に彦根で死去し、井伊氏の菩提寺である彦根市清凉寺に葬られた。