日航ジャンボ機墜落事故

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日航123便墜落事故から転送)
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日航ジャンボ機墜落事故
日付1985年8月12日
時間18時24分 - 18時56分
場所日本国旗.png群馬県多野郡上野村御巣鷹の尾根
死者520名
負傷者4名
生存者4名
原因#墜落原因参照。
備考ボーイング 747SR-100型
機体番号「JA8119」

日航ジャンボ機墜落事故(にっこうジャンボきついらくじこ)は、1985年昭和60年)8月12日日本航空123便、ボーイング747型旅客機(ジャンボジェット機)が群馬県多野郡上野村[注 1]の山中に墜落した事故である。

概要[編集]

乗員乗客524名中、負傷者は4名、死亡者は520名。航空機事故としては最大のものである。日本で発生した航空事故としては21世紀現在でも最多死者数を出した大事故でもあった。

尾翼破損から32分間の間、全操縦油圧を喪失し操縦桿がほとんど役に立たなくなった操縦席内で3人の操縦士たちは努力により左右のエンジン出力を増減させることで機体の向きを変えるという奇跡的な操縦法を編み出した[注 2]が、必死の操縦努力も虚しく、群馬県多野郡上野村にある御巣鷹山の尾根に墜落した。

墜落時の衝撃により機体は大きく前部と主翼を含む胴体部分、尾部の2つに別れ、主翼を含む前部胴体部分は主翼内に莫大な量の航空ケロシン燃料を積載していたため墜落と同時に大炎上を起こしたが、後部は分離脱落と同時に尾根を転がりながら減速、停止したことで多くの生存者が残ることになった。それでも時速600キロ以上での墜落であったため、最終的に救助活動によって最後部に座っていた女性4名が救出されたのみで、他の生存者たちは全て日が昇るまでに出血多量などにより死亡した。

4人の生存者は一様に「墜落直後には多数の生存者がいた」と証言しており、救助が早ければ大勢の命が助かったとされている。

墜落原因[編集]

  • 原因は「(外気を遮断して客室内の気圧を地上とほぼ同じ高圧に保つための)圧力隔壁が金属疲労により破損したことで(爆発的な気圧低下が発生した影響により)垂直尾翼が壊れた」こととされている。過去に起きたテイルストライク[1]による損傷の修理に不備があったとされている。
  • 「圧力隔壁とは関係なくフラッター現象[注 3]による垂直尾翼の破損」という説や「自衛隊の標的機が垂直尾翼に衝突した」「米軍が誤射したミサイルが垂直尾翼に?またはエンジンに?命中した」などの説もある。高度23,900フィート(約7.28km)で爆発のような音、という点は考慮すべき。

事故の名称[編集]

この事故は『日航機墜落事故』もしくは『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることが多い。だが、その他にも『日本航空ジャンボ機墜落事故』『日本航空123便墜落事故』『JAL123便墜落事故』『日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故』『日航123便御巣鷹山墜落事故'』『JA8119 御巣鷹山事故(123便事故)[2]』などと呼ばれることもある。

報道[編集]

各テレビ局は123便がレーダーから消えたことの発表から時を置かずに通常番組から特別番組に切り替えた。大阪空港に着くはずの乗員乗客524人を乗せた機体が忽然と消えたのだ。やがて、通常の飛行ルートとは異なった地域に飛行機が飛んでいるという目撃情報が相次ぎ、さらに北関東からは赤い火柱が見えたという情報が入った。番組は深夜にまで及び、この頃、最長片道切符で旅行中の種村直樹も一晩中旅館テレビで特別番組を見ていた。

詳細は「昭和60年8月12日日本航空123便墜落事故の報道」を参照

その後[編集]

  • 墜落地点には現在「御巣鷹の尾根」と呼ばれる慰霊碑が建立されている。
  • なお、以後日本航空では「123便」の名称を永久欠番扱いとしている。
  • 事故から25年経過した2010年にも地中から大きな残骸が発見される(事故時の強烈な衝撃により地中に深くめり込んだ残骸が地面から出土したもの)などしている。
  • 現在でも根強い陰謀論がある[3]。争点の1つは救助が遅れた理由で、その間に証拠隠滅のため火炎放射器が使用された、とする話もある[4]。画像検索すると黒焦げの遺体の画像が出てきたりするから、まぁ、そう言いたくなるのも分からなくはない。

その他[編集]

戦闘機について
爆発のような音のあとすぐ発信された「スコーク77」[注 4]を自衛隊は受信していたようで、123便がレーダーから消えた際に墜落したと判断して、捜索のためF-4を2機スクランブル発進させた様子[5]
救助が遅れた理由
1985年8月当時の体制では、山の中の墜落現場に地上部隊を誘導するのがうまくいかなかった様子[6]。山の中は報道で入った者が遭難するくらいには迷いやすかった模様[7]
オレンジエア
自衛隊の標的機だと考える説の根拠の1つが、ボイスレコーダーで「オレンジエア」と聞こえる空耳部分である。「オールエンジン・・・」では少々違和感があるので確かにそう聞こえない事もない。
「オールエンジンクリア」と考える人も居る[8]
文脈というか話の流れ的にギアの話をしているので「オレンジギア」「オレンジドア」と、ランプの色の事なのでは、と考える人も居る[9][10]
ボイスレコーダー
生データは公開されておらず、公開されているものは複数のチャンネルが合成され、編集されたものらしい[11]
日本航空安全啓発センター
大田区羽田空港地内に当事故に関する資料を中心に保存・展示する日本航空安全啓発センターがある。社員教育・研修のための施設であるが、部外者であっても予約をすればセンター職員のガイドを受けながら見学することができる。

結論[編集]

関連項目[編集]

乗客として死去した著名人
  • 坂本九 - 歌手。友人の選挙応援として事務所開きに出席する予定であった。
  • 中埜肇 - 阪神タイガース社長。日本民営鉄道協会から帰る途中であった。
  • 浦上郁夫 - ハウス食品社長。グリコ・森永事件の終息を、父靖介の墓前に報告すべく大阪に向かう途中であった。
  • 北原遥子 - 女優。友人に会いに行く予定であった。
  • 中村悠紀子 - モデル。ニューヨークで日系企業の社長秘書として採用することにあたっての準備のために日本に一時帰国中だった[12]
偶然乗機せずに命拾いした著名人
  • 明石家さんま - オレたちひょうきん族の収録が予定より早く終わり、1本前の便で大阪に向かったため難を逃れた[注 5]
  • ジャニー喜多川 - 近藤真彦の舞台初日に呼ばれ前日に大阪入りし難を逃れた。
  • 少年隊メンバー - 上記ジャニー喜多川が舞台初日に呼ばれたことで、付き添う予定だった少年隊は東京に残ることになり難を逃れた。
  • 逸見政孝 - 家族で実家への帰省目的で123便を予約しようとしたが、飛行機嫌いの妻と、新幹線のほうが安いという長男の一言で新幹線に流れ、難を逃れた。
  • 稲川淳二 - 収録後、体調不良のため、大事を取って大阪入りするのを1日遅らせ、新幹線で向かったため難を逃れた、
  • 笑点メンバー[注 6] - 林家こん平が「ゆっくり行こうよ」と言ったので難を逃れた。
  • 勝谷誠彦 - 友人に会いに京都に立ち寄るため新幹線に変更し、難を逃れた。
  • 深田恭子 - 当時2歳。家族で大阪入りする予定だったが、モノレールの遅延で乗れず、難を逃れた。
    1.事故発生時は墜落現場に最も近い群馬県多野郡上野村の村長で、墜落直後に現地に消防団員を派遣した。
    2.上野村で毎年慰霊祭が執り行われるきっかけとなる「慰霊の園」を1986年昭和61年)に建設した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 通称御巣鷹の尾根
  2. この事故の際にこの操縦士たちが試みるまで飛行マニュアルにすら記載されたことがない完全な新操縦方法
  3. 空気抵抗などによる自然発生的な振動
  4. jawp:トランスポンダ#スコーク
  5. この事故があって以降、さんまは東京 - 大阪間の移動には新幹線を使うようになり、他でも飛行機移動はなるべく避けるようにしている。
  6. 当時のメンバーは三遊亭圓楽桂歌丸、林家こん平、古今亭朝次三遊亭小遊三三遊亭楽太郎山田隆夫

出典[編集]

外部リンク[編集]

事故現場画像など
陰謀論関係