昭和60年8月12日日本航空123便墜落事故の報道

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昭和60年8月12日日本航空123便墜落事故の報道は、日航ジャンボ機墜落事故の報道に関する記事である。

当日のテレビ放送[編集]

1985年8月12日に乗員乗客524名と郵便物を積んで東京国際空港を1800に出発した123便は大阪国際空港に約1時間後に到着する予定であったが、機体がレーダーから消え、墜落の可能性が大きくなった。テレビ局は通常番組から特別番組に移行し、深夜にも報道を続けた。この間、北関東では通常飛行しないはずの大きな飛行機に不審に思い、一般人が撮った写真は、車輪が出て垂直尾翼の大半が失われていたものであった。さらに、群馬県では山の方で大きな火柱が上がったのを目撃したという情報が入り、墜落は現実のものとなった。特別番組は深夜まで報道され、当時、最長片道切符で旅行中だった種村直樹も宿泊先の旅館でこの番組を見ていた。

新聞[編集]

翌日の朝刊は、読売新聞高岡支社が発行した紙面では一面に大きく「日航123便墜落」と記載され、当日の飛行予定ルートと実際の飛行ルートが図で示された。さらに乗員乗客の氏名と顔写真が載せられた。犠牲者は東京都民と大阪府民が多かったが、それでも全国に犠牲者は散らばり、外国人の犠牲者もいた。地域面では富山県民も一名が命を落としたことが記載された。

このように未明に新事実が起きた事柄が翌日の大手新聞に記載できるようになったのは、大手新聞が地方印刷ができるようになったためである。昭和59年2月1日日本国有鉄道ダイヤ改正以前は大都市で印刷した新聞を夜行列車荷物列車で輸送し、未明に各駅へ降ろしていった。

生存者発見[編集]

あまりの凄惨な現場に乗員乗客524名は絶望と思われたが、奇跡的に4名の生存者が発見され救出された。いずれも女性であった。このうち当時12歳の中学1年生が応急手当てをされたあと陸上自衛隊のヘリコプターで隊員に後から抱きかかえられて救出される映像が繰り返し流された。この中学生は両親と妹を事故で亡くしたが、後に看護師となったことが報道された。

救出現場[編集]

陸上自衛隊群馬県警察本部さらに隣県の警察本部からも応援が来たが、現場に近づく道路はなく、人力での資材搬入やヘリコプターが使用された。救出員のために弁当が用意され、せめて力をつけてもらおうとの蒲焼きが出されたが、遺体に見えると拒否され、スクランブルエッグも同様に残され、結局おにぎりが一番良いとされた。前ということで未成年者の乗客も多く、我が子と重なると怒鳴る警官もいた。遺体安置所には多くの遺族が訪れたが、腐敗した遺体からガスが出て生前の面影がなかったり、体の欠損があったりと遺族を悲しませた。

週刊誌[編集]

現場の凄惨な写真を載せ、さらに遺族の了承なしに遺体を撮影するなど、問題行動が起きていた。

事故の影響[編集]

日本航空に限らず、日本国内の航空路の利用者は減少し、鉄道の利用者が増加した。

郵便事故[編集]

多くの郵便物が消失した。

現場のその後[編集]

事故から約5ヶ月後の1986年(昭和61年)1月に財団法人慰霊の園を設立し、1年が経過する前の8月1日に「御巣鷹山慰霊碑」(昇魂之碑)と追悼施設である「慰霊の園」が建てられ、周辺には道路が整備された[1]。毎年8月12日には犠牲者の追悼のために現場を訪れる遺族も多く、ニュースや新聞で報道される。日本航空の社員も研修の際には必ず訪れる。事故から40年近く経ち、事故後に誕生した日本航空の社員も多い。事故を知っている社員も2023年時点で50代後半となってしまった。

脚注[編集]

  1. 群馬県総務部消防防災課編 『日航123便墜落事故対策の記録』 群馬県、1986年3月、34頁。