ジャニー喜多川
ジャニー 喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: ジョン・ヒロム・キタガワ (John Hiromu Kitagawa)、漢字表記: 喜多川 擴〈きたがわ ひろむ〉、1931年10月23日 - 2019年7月9日)は、日本の実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサー。血液型AB型。
概要[編集]
アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。ジャニーズ事務所、ジェイ・ドリーム、ジャニーズ出版、ヤング・コミュニケーション、つづきスタジオの代表取締役だった。
父は真言宗の僧侶。4人姉弟でメリー喜多川は姉。その娘で、2023年9月までジャニーズ事務所の代表取締役だった藤島ジュリー景子は姪にあたる。
来歴[編集]
アメリカ合衆国・ロサンゼルスで生まれて2年後の1933年、一家で日本の大阪府を訪れた。1941年から太平洋戦争が始まると和歌山県に疎開する。1945年に終戦を迎えると渡米したが、1952年に日本に帰国した。戦後は美空ひばり、笠置シヅ子ら訪米した日本の歌手活動をサポートしながら芸能界との関与を深めた。
1960年初頭、ワシントンハイツ(現在の代々木公園一帯)でジャニーズ少年野球団を結成した。あるとき、練習が雨天のため中止となり、ミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」を少年らと鑑賞して感銘を受けた少年らを見て、エンターテイメント界に進出することを決意し、1962年4月にコーチを務めていた野球チームのメンバーの中からあおい輝彦ら4人を選抜して初代「ジャニーズ」を結成して、6月にジャニーズ事務所を設立した。当時男性が踊ること自体が珍しい時代であったが、ジャニーは「歌って踊れるアイドル」を基本指針に「男性版宝塚」を完成させようと独自の感性でプロデュースし、芸能界に新しい風を吹き込んだ。以後、SMAPや嵐など多くのタレントを手掛けた。
1980年代からはアジアを中心に世界各地でコンサートを開催した。
2011年にギネス・ワールド・レコーズから「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」に認定された。2012年には「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」として3つ目のギネス認定を受けた。
2016年1月、SMAPの独立問題が表面化している中で高齢のこともあり、病気で入院。スタッフに支えられて立ち上がったり、車椅子の使用が増加したという。2019年6月18日午前11時30分頃、都内の自宅で体調不良を訴えて救急搬送され、医師より解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血と診断された。所属タレントらが連続見舞いに訪れ、一時期は快方に向かいつつあると見られていた。
しかし2019年7月9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血により東京都内の病院で死去した。87歳没。
2023年3月に英国BBCによるドキュメンタリーが放送されたのを契機に、旧所属員によって過去の行状に関する告発会見が行われ、同年5月14日には姪の藤島ジュリーによる動画会見、9月5日には藤島ジュリーの引責辞任に至った。