戸田左門覚書
戸田左門覚書(とださもんおぼえがき)とは、関ヶ原の戦いで徳川家康に従って参加した徳川氏の家臣・戸田氏鉄による見聞録のことである。左門とは氏鉄の官途のことで、現在は新井白石による写本を複製した限定500部のものが伝わっている。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は徳川家康の家臣・戸田氏鉄。氏鉄は戸田一西の子で、一西が死去した後に家督相続して、美濃国大垣藩主となっている。成立年代に関しては、この覚書の最終記事が参勤交代の制度化なので寛永12年(1635年)12月。氏鉄の死去が明暦元年(1655年)2月14日なので、すなわちこの間ということになる。なお、氏鉄は覚書の中で数か所「この記録は『関ヶ原記』に詳細を譲る」と書いていることから、少なくとも『関ヶ原記』よりは後ということになる。ただ、『関ヶ原記』という同名の著書が多すぎるため、氏鉄が見たのがどれのことを指しているのか不明である。
別称は『慶長三年日記』(けいちょうさんねんにっき)、『関原正㬢』(せきがはらせいぎ)。
内容[編集]
全1巻。氏鉄は天正4年(1576年)生まれで、関ヶ原の戦いにも25歳で従軍している。その氏鉄が記録した関ヶ原前後から江戸時代前期にかけての記録である。
年月日を明示しながら、事件の起こった順に記録している日記のようで、後で整理してまとめた形をとっている。最初は慶長3年(1598年)8月の豊臣秀吉の死去から、その後の会津征伐、関ヶ原の戦い、そして慶長7年(1602年)7月の千姫と豊臣秀頼の婚姻までを重点して記録している。氏鉄はこれらに記述の大半を費やしており、記述は極めて簡略で、淡々と事実のみを記している。
関ヶ原本戦については以下のように記されている。
- 石田三成は松尾山山麓の自害ヶ岡に本陣を置いた。
- 堀尾吉晴が三成ら主力がいなくなって木村勝正らが守る大垣城を攻めて、開城させた。
- 関ヶ原は朝霧のため、敵味方の見分けが付かなかったが、それが晴れた頃に松尾山に陣取っていた小早川秀秋が裏切り、西軍は総崩れとなり、三成は佐和山城を目指して逃げるが、田中吉政の手勢に生け捕られた。
- 小西行長、安国寺恵瓊、増田長盛、長束正家、長宗我部信親らも討死したり捕らえられたりした。
- 家康は佐和山城、大津城、伏見城を経て、9月29日に大坂城に入った。この佐和山城の戦いの際、石田正澄が自害したことになっているが、「三成の弟[注 1]」と記録されている。
- 10月1日に三成、行長、恵瓊らが処刑。
- 豊臣家の諸侯は、家康が豊臣秀頼の外祖父に当たることから、家康を秀吉の後継者として認め、家康は10月15日に秀頼・淀殿と和睦した。
早くても寛永12年(1635年)の成立だから、氏鉄が60歳の時であるためか、記録に誤記が見える。例えば長宗我部信親は既に戸次川の戦いで戦死していて関ヶ原に出陣していたのはその弟の長宗我部盛親であるのに、原文では信親になっている。また、堀尾吉晴は加賀井重望に襲撃されて重傷を負ったため、関ヶ原本戦には参加していないのに[注 2]、原文では「帯刀吉晴」になっている。ただ、関ヶ原のあった同時代を経験した人間が書いているので、信頼性は強いと思われる。