加賀井重望
加賀井 重望 かがのい しげもち | |||||||||||||||||||||||||
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加賀井 重望(かがのい しげもち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。美濃加賀井城主で1万石の大名である[1]。
略歴[編集]
最初、父と共に織田氏に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信長の次男・信雄に属して美濃加賀井城を守備。しかし、羽柴秀吉に攻められて落城し、戦後は秀吉より召し抱えられて使番に任じられ、後に1万石の大名となった[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は東軍に属して徳川家康の会津征伐に従軍。ところが同年7月19日、三河国池鯉腑(現在の愛知県知立市)において東軍の武将である水野忠重、並びに堀尾吉晴と会食中に、口論の末に水野を惨殺し、さらに堀尾吉晴に重傷を負わせたが、自らも堀尾吉晴あるいは水野の家臣によって殺害されたという。享年40。
口論の内容や惨殺の経緯に至った理由は不明で、この事件については謎が多い。後代の二次史料である『関原始末記』や『徳川実紀』などは西軍の石田三成が東軍の要人を暗殺するために送り出した刺客であったとされる。忠重は家康の叔父であり、吉晴は豊臣政権の三中老である。しかし、一次史料では慶長5年8月6日付の真田昌幸宛石田三成書状の中でこの事件を伝聞であると三成は記しており、関与していたかどうかはかなり疑問視される。
重望の死後、その弟の秀盛や一族は全て西軍に属して杉浦重勝の美濃竹ヶ鼻城に入城し、東軍と戦った。しかし、加賀井城は8月22日に福島正則によって攻略され、同日に竹ヶ鼻城も落とされている。重望の息子・弥八郎は美濃大垣城に籠城して福原直高に協力していたが、関ヶ原本戦で西軍が敗れた後、福原が寄せ手の大将である水野勝成に降伏する際の条件として差し出され、その勝成によって処刑された。勝成は重望が殺害した忠重の長男であった[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]