深心院

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深心院
しんしんいん
改名 お梅、お久
戒名 深心院慈潭性水大姉
性別
年齢 22
時代 江戸時代中期
生年月日 元禄13年(1700年
死没日 享保6年10月7日1721年11月25日
肩書き 徳川吉宗側室
国籍 日本国旗.png日本
墓所 上野寛永寺凌雲院
配偶者 徳川吉宗
子供 徳川源三徳川宗尹
父:谷口正次、母:服部越中守の娘
家族構成 深心院谷口正乗

深心院(しんしんいん)は、江戸幕府の第8代将軍徳川吉宗の側室で、徳川源三(夭折)、徳川宗尹一橋徳川家初代当主)の母。俗名はお梅(おうめ)、お久(おひさ)。一橋徳川家第2代当主・徳川治済の祖母で、第11代将軍・徳川家斉の曽祖母である。

生涯[編集]

父は谷口正次。母は北面の武士服部越中守の娘[1]

元禄17年(1704年)3月に和歌山城奥向きに奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた[1]

その後、紀州藩を継いだ吉宗の寵愛を受け、吉宗が8代将軍になると紀州藩邸から江戸城大奥に移り、享保4年(1719年)3月14日に源三(夭折)を産んだ。次いで享保6年(1721年)閏7月15日に宗尹を産んだが、同年10月7日(あるいは11月11日)に22歳で病没した。上野寛永寺凌雲院に埋葬された。戒名は深心院慈潭性水大姉[1]

弟に谷口正乗がおり、姉の縁で享保18年(1733年)12月に招聘されて300俵を与えられて旗本となり、甥の宗尹付の家臣となる。その後、加増を受けて500石取りにまで栄進している[1]

脚注[編集]

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  1. a b c d 卜部「江戸城大奥の女たち」P187

参考文献[編集]