杜世忠

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが杜世忠の項目をおカタく解説しています。

杜 世忠(と せいちゅう、1242年 - 1275年)は、中国政治家外交官

略歴[編集]

元朝の初代皇帝フビライ・ハーンに仕えていた家臣でモンゴル人。1275年、文永の役の半年後にフビライから漢人の何文著と共に宣諭日本使に任命される[1]

1275年4月15日、徒世忠ら5人の使者団は従来通りの大宰府ではなく、長門国室津に上陸した(『関東評定衆伝』)。しかし、そこで鎌倉幕府の命令により捕縛されて鎌倉に送られ、9月7日に当時の執権北条時宗の命令により鎌倉竜ノ口において斬首された(『関東評定衆伝』)。享年34。

死にあたり、杜世忠は日本に向けて出発する際、見送りの妻子がいつ帰ってくるのか、と聞いた際にまた栄達を夢見て機会を失うことなく無事に帰ってきてほしいと頼んだのに、といった趣旨の辞世を残している。その首級は晒し首となった[1][2]

時宗が使者を処刑した理由に関しては、日本は元に決して服属しないという強い決意のほどを内外に示すためとも言われるが、一説に使者が従来の大宰府ではなく長門国に上陸したことから、日本の地勢などを調べる狙いがある、すなわちスパイの役割もあったと見たのも斬首の理由の1つと見られている。実際、時宗は長門から鎌倉に徒世忠らを護送する際、京都の通過を避けるなどそのコースに工夫をしており、元による情報収集を懸念していたものと見られている[2]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b 佐藤「北条時宗のすべて」P250
  2. a b 佐藤「北条時宗のすべて」P103

参考文献[編集]