庄内地域
庄内地域(しょうないちいき)とは、山形県の北西部に位置する地域。
概要[編集]
旧出羽国田川郡(鶴岡市、三川町、庄内町)、旧出羽国飽海郡(酒田市、遊佐町)の2市3町で構成される地域である。県の出先機関は庄内2大都市の中立地の三川町に置かれている。
山形県土の25.8%を占め、最上川、赤川、日向川、月光川など、河川が多数流れる穀倉地帯であり、庄内米はブランド米のひとつである。庄内おばこ節は東北地方各地で広く歌われている民謡となっている。
内陸地域(村山、最上、置賜の一部)と同じ最上川水系地域が大半だが、独自の経済・文化圏で、羽越本線を通じた新潟県や秋田県との繋がりもある。
歴史[編集]
山形県の日本海沿岸地域をあらわす「庄内」「荘内」は、中世の三大荘園のうち大泉荘の内側、「大泉荘内」から生じたといわれる[1]。
「白河の関」「勿来の関」と並ぶ古代の奥羽3大関所のひとつ古代鼠ヶ関は鶴岡市に遺跡がのこる[2]。西暦450年頃には、庄内平野に最北減の古墳である鷺畑山古墳が築造された[3]。
鶴岡市の鶴ヶ岡城は、もと大宝寺城とよばれ、戦国時代に庄内地方で根を張る武藤氏(大宝寺氏)の居城であった。武藤義氏(大宝寺義氏)は上杉謙信と同盟し、元亀2年(1571年)に庄内地方を統一した。しかし上杉謙信が天正6年(1578年)に急死すると天正11年(1583年)に家臣の前森蔵人、東禅寺勝正らが反乱し、尾浦城を包囲された義氏は城外の高館山で自害した。その後、義氏の実弟の武藤義興が跡を継ぐが、この時代の武藤家中では内紛が絶えず発生し、隣国山形城の最上義光が武藤氏に介入し、義興は最上義光に追いつめられて天正15年(1587年)に自害する。そして義興の養子となっていた上杉景勝の重臣・本庄繁長の次男・武藤義勝が上杉軍の支援を得て反撃に転じ、天正16年(1588年)の十五里ヶ原の戦いで最上義光を破って東禅寺勝正らを自害させ、庄内地方は武藤氏が再度支配下に置いた。だが、天正18年(1590年)の小田原征伐後、豊臣秀吉によって一揆の発生などを咎められて武藤義勝は没落し、庄内は上杉氏の支配下に入る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで最上義光は東軍に、上杉景勝は西軍に属した結果、庄内は徳川家康の裁定により上杉氏から没収されて最上氏に与えられ、大宝寺城は最上義光の城となり、鶴ヶ岡城と改称された。だが、義光が死去すると最上家中では内紛が絶えず発生し、遂に元和8年(1622年)に最上騒動と称されるお家騒動により義俊が改易された。その後、信州松代藩から酒井忠勝が出羽国庄内藩13万8,000石の初代藩主として入封し、明治の版籍奉還まで庄内藩の支配下に置かれた。廃藩置県や府県統合による、酒田県→鶴岡県を経て、1876年8月に山形県域となった。