置賜地域
置賜地域(おいたまちいき・おきたまちいき)は、山形県の南端に位置する地域。
概要[編集]
米沢市、長井市、南陽市、高畠町、川西町、小国町、白鷹町、飯豊町の3市5町で構成される地域である[1]。米沢牛、米、ブドウ、さくらんぼなどさまざまな農産物の産地となっている[2]。置賜地域の面積は、山形県の26.8%を占める。
大半は最上川水系だが、小国町のみ荒川水系である。白鷹山と朝日岳を結ぶラインが、北隣の村山地域との境界となっている。
19世紀の旅行家・イザベラ・バードは、訪問時に置賜地域を東洋のエデンの園、東洋のアルカディア(理想郷)と表現した[3]。かくのごとく自然に恵まれた地域であり、白布温泉、姥湯温泉、大平温泉、滑川温泉、新高湯温泉、五色温泉、湯の沢温泉などの温泉群など観光資源も豊富である[4]。
歴史[編集]
置賜はu-ki-tomam(葦の生えている広い谷地)のアイヌ言葉に由来するといわれる。「ウ」は名詞の接頭語で場所を意味し、「キ」はヨシ又はアシの総称、「トマム」は低湿地、沼沢地、泥沼の意味である。日本書記・持統天皇の3年春正月の条に「陸奥国優嗜曇郡(うきたむこほり)の城養の蝦夷脂利古男麻呂と鐵折と髭髪を剔りて沙門とならんことを請ふ」と表記されている[5]。
安土桃山時代前期は伊達氏の根拠地で伊達政宗もこの地を根拠に東北の覇者となったが、小田原合戦遅参を豊臣秀吉に咎められたのと後の大崎・葛西一揆の黒幕とされたことから、この地域から転封させられた。
伊達氏に代わって蒲生氏郷、次いで上杉景勝麾下の直江兼続の支配下となったが、関ヶ原の戦いの一環で反徳川の標的にされたことで、景勝は減封、上杉領地たる米沢藩は元々兼続に与えられた置賜地域と陸奥信夫郡などの30万石になり、さらに景勝の孫の綱勝が無嗣で逝去の後、女系の甥の綱憲が末期養子で継承できたが半知削減のペナルティを受けた。
吉良上野介の息子だった綱憲は、半知削減に関わらず、実家に多くの援助をし、綱憲から5代続く財政難の始まりとなり、「金気を取るには『上杉弾正』という紙を貼ればいい」と江戸にも悪評される貧乏藩となり、8代重定は幕府へ版籍奉還し大名を廃業することまで考えていた。
しかし、一人の人物が置賜地域を前述の「理想郷」に変貌のきっかけを作った。日向高鍋藩秋月家から養子入りした9代上杉鷹山(治憲)である。鷹山は革新的な考えの家臣を遣い、殖産興業や経費節減を計って、自身の逝去の翌年には藩の借財の完済を成し遂げた。逝去後も鷹山の薫陶を受けた11代斉定や息子の斉憲がよく守勢して幕末を迎えた。戊辰戦争に際しては、斉憲は奥羽列藩同盟に参加し、旗色が悪くなると早々に降伏した。
廃藩置県後、置賜県を経て1876年に山形県域となった。置賜郡は1878年11月に東、西、南に3分割された。南置賜郡は1958年に消滅した。
参考文献[編集]