島津亀寿

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが島津亀寿の項目をおカタく解説しています。

島津 亀寿(しまづ かめじゅ、元亀2年4月26日1571年5月19日) - 寛永7年10月5日1630年11月9日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性島津義久の3女。母は種子島時尭の娘。従兄弟の島津久保の正室、後にその久保の弟・島津忠恒(家久)の正室となった。名は単に(かめ)とも伝わる。

経歴[編集]

島津氏の第16代当主・島津義久の娘である。天正15年(1587年)に豊臣秀吉九州征伐で父・義久が秀吉に降伏した際、亀寿は秀吉の人質として差し出された。しかし、すぐに帰国を許されている。

義久は娘ばかりで男子が無かったため、弟の島津義弘の長男・島津久保を後継者と定め、久保と亀寿を天正17年(1589年)に結婚させた。従兄弟同士の結婚であるが、久保は秀吉の朝鮮出兵において文禄2年(1593年)に陣没してしまう。このため、秀吉の意向もあって亀寿は義弘の3男で久保の弟にあたる忠恒(のち家久)の正室として再婚した。なお、久保との夫婦仲は非常に良かったようで、天正19年(1591年)3月19日付の義弘が実窓夫人に宛てた書状で久保・亀寿夫妻の夫婦仲の良さに喜んでいる記述がある。

時期不明であるが、その後は大坂城において豊臣政権下の人質にされており、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは義弘の正室(実窓夫人)と共に人質の身であったが、関ヶ原から逃れてきた義弘に助け出されて船で薩摩まで逃れる苦難を味わっている。

忠恒との夫婦仲は良く無かったようである。父に義久という嫡流を持ち、さらに年上の姉さん女房ということもあってか、夫婦仲は次第に悪化しており、慶長16年(1611年)に義久が死去すると、亀寿は鹿児島城から出て国分に移っており、忠恒とは別居婚状態になっている。

とはいえ、義久の嫡流を引く亀寿の影響力は絶大だったようであり、「御上」と周囲からは呼ばれて島津氏の財産や家督相続などには事実上のキングメーカーとして君臨していたとされる。忠恒と亀寿の間に子宝は恵まれず、久保との間にも子宝には恵まれていなかったので、亀寿は後継者に次男に当たる光久を指名している。光久は母方の血統が亀寿の姉のひ孫に当たっている。

寛永7年(1630年)に60歳で病死するが、その際に「家系図は忠恒に渡すな」と遺言したと伝わる。また忠恒もその死にあたり、亀寿の法要を放置して相手にしない冷淡さを見せたという。

逸話[編集]

鹿児島県鹿児島市の市立美術館前庭に「ジメサア」と呼ばれる石像があり、この石像は亀寿であると言われる。亀寿の戒名「持明」(じみょう)が訛ってジメサアとなったとされる。亀寿は「以ての外の鹿面(荒く粗末な顔)」であったと記録されるほどの醜女であったとされ、そのため毎年の祥月命日にはこの石像の顔が綺麗にお化粧されて亀寿の霊を慰めるのだといわれている。

島津亀寿が登場する作品[編集]