実窓夫人
実窓夫人(じっそうふじん、? - 慶長12年(1607年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。薩摩国の戦国大名・島津義弘の3番目の正室。
略歴[編集]
父は島津氏の家臣・園田実明。ただし、広瀬助宗とする説も存在する。実明は島津貴久に仕えてその危機を救った武将で、その恩義から縁戚に迎えられた可能性が指摘されている[1]。
義弘は実窓夫人を迎える前に2人の正室を迎えており、日向国の加久藤城に実窓夫人を迎えたのが永禄7年(1564年)で、最初の長男・鶴寿丸が生まれたのが永禄12年(1569年)で、長兄の島津義久が種子島時堯の娘を正室にしたのが永禄5年(1562年)と言われるため、実窓夫人が正室になったのは永禄5年から永禄7年の間の可能性が高い[2]。
義弘との間には、長男の鶴寿丸のほか、天正元年(1573年)に生まれた次男・島津久保、天正4年(1576年)に生まれた3男・島津忠恒、天正8年(1580年)に生まれた4男・島津万千代丸、天正10年(1582年)に生まれた5男・島津忠清、そして末娘の御下の5男1女に恵まれている[2]。
実窓夫人は久保らの養育に熱心に当たった。天正19年(1591年)に豊臣秀吉が義弘に妻子を上洛させるように命じた際、上洛して伏見の島津屋敷に入って豊臣政権に対する人質となった[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、義弘が西軍について敗れ、薩摩に敗走する際、家臣に救出されて義弘と共に薩摩に帰国した。慶長12年(1607年)に死去した[2]。
法名は実窓院芳軒大姉。妙圓寺の境内東脇に葬られた。義弘は愛妻の供養のため、昌庵祐繁を開山として芳真軒を建て、妙圓寺500石のうち75石を割いて寄進したという。後に実窓夫人の墓は大正時代に福昌寺墓地に改葬された[2]。
義弘からは相当に愛されていたようで、天正19年(1591年)3月19日付の義弘による実窓夫人宛書状で「今夜もまた、お前を夢に見たよ。まさに今、この場でであったようだった」とあり、子供たちの養育を愛する妻に任せてよく言い聞かせるようにとある。戦国時代に側室を迎えるのは当たり前だが、義弘には側室を迎えた形跡が無く、実窓夫人だけで5男1女をもうけており、これは異例のことといってよい。ただ、島津忠恒と御下を除く子供たちは全て早世しており、実窓夫人は不幸な晩年を過ごしている。