小笠原権之丞
小笠原 権之丞(おがさわら ごんのじょう、? - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川家康の落胤とされる。母は三条氏。江戸幕府の旗本でキリシタン。
経歴[編集]
『幕府祚胤伝』では家康の落胤として紹介され、生年については「忠輝朝臣の上」とされている。家康の5男・武田信吉の生年が天正11年(1583年)で、6男・忠輝の生年が天正20年(1592年)なので、その間の出生ということになる。なお、同書によると生母は京都の三条某氏の娘とある。母親が京都の娘ということは、家康が京都に滞在中に手を付けた可能性が非常に高い。家康は天正14年(1586年)に豊臣秀吉に臣従してから、天正19年(1591年)までは毎年のように秀吉の重臣として豊臣政権に参画することを余儀なくされており、つまりこの6年間のいずれかが可能性としては非常に高いと思われる。なお、Wikipediaでは天正17年(1589年)が生年のようにされているが、何を根拠にしているのかは全く不明。ただ、この年に家康は2回も上洛している。
生まれて間もなく権之丞の存在を知った家康は、彼を旗本の小笠原広朝の養子にした。さらに旗本(後に井伊谷藩主)の近藤秀用の娘を娶り、その間に1男2女を成したとしている。長男は早世したが、長女は旗本の間宮信勝に、次女は中川忠幸にそれぞれ嫁いだ。だが、権之丞は時期不明だが剃髪して語石と称している。
慶長年間になると家康はキリシタンを厳しく弾圧し、権之丞もキリシタンであったことから棄教するように命じたが応じなかったので、家康は権之丞を改易にして追放した(『幕府祚胤伝』『源流綜貫』)。
大坂の陣が開始されると、豊臣方の武将で同じくキリシタンだった宇喜多秀家の旧臣・明石全登に誘われて大坂城に入城。慶長20年(1615年)の夏の陣の際、天王寺・岡山の戦いで江戸幕府軍と戦って天満橋において戦死した。