小笠原元続

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小笠原 元続(おがさわら もとつぐ、? - 元亀4年5月17日1573年6月16日))は、戦国時代室町幕府後北条氏の家臣。小笠原元清(小笠原充康)の子。兵部少輔。弟に弥六がいる。仮名は六郎[1]

生涯[編集]

祖父・小笠原政清の娘・南陽院殿(すなわち元続の叔母)は、伊勢盛時(北条早雲)に嫁いで北条氏綱を生んでおり、この縁で当初仕えていた将軍・足利義澄管領細川高国が共に没落した後に従兄弟の北条氏綱を頼ることになる。

後北条氏と将軍・足利義晴及び政所執事・伊勢貞孝との交渉役を務め、後北条氏の関東地方平定が室町幕府の利益に適うことを説明した。天文8年(1539年)には足利義晴の使者である大舘晴光が、氏綱の幕府への忠節を賞するために鷹を持って小田原城を来訪した際には、これを迎えている。

氏綱からは所領として相模国西郡飯泉郷(現在の小田原市)を与えられており、家臣というよりは一族、あるいは客分として遇され、主に幕府関係者との取次・側近として活動している[1]

元亀4年(1573年)5月17日に死去。法名は広岳院殿月渓宗光。息子の康広は、氏綱の子・氏康の娘婿となった(あるいは北条為昌の娘・種徳寺殿の婿とする説がある)[1]

脚注[編集]

  1. a b c 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P143

参考文献[編集]