小笠原信興
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小笠原 信興(おがさわら のぶおき、? - 天正18年(1590年)[1])は、戦国時代の武将。徳川家、甲斐武田家、北条家の家臣。
生涯[編集]
父は小笠原氏興[1]。仮名は与八郎[1]。初名は氏助。官途は弾正少弼[1]。永禄12年(1569年)閏5月に家督相続して高天神城主となり、遠江先方衆として徳川家康に仕えた[1]。元亀2年(1571年)に武田信玄が高天神城に攻め寄せて来た時には撃退した。
天正2年(1574年)に武田勝頼が攻めて来た時にも奮戦するが、家康からの援軍を得られず勝頼に降った。この際、甲斐武田氏の通字である「信」の字を与えられて信興と改名する[1]。勝頼から従来どおり高天神城主の地位も認められたが、天正3年(1575年)10月に駿河庵原郡・富士郡で1万貫文の所領を与えられて城主を交代させられた[1]。
天正10年(1582年)の武田征伐では生き延びて北条氏政に仕える[1]。天正18年(1590年)の小田原征伐で北条家が滅亡すると、徳川家康により過去の降伏を理由に誅殺された[1]。