小林一三

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小林 一三(こばやし いちぞう、明治6年(1873年1月3日 - 昭和32年(1957年1月25日)は、阪急電鉄宝塚歌劇団阪急百貨店東宝の創業者、阪急ブレーブスの創始者である。正三位勲一等瑞宝章

経歴[編集]

幼少期[編集]

1873年明治6年)1月3日、山梨県巨摩郡河原部村(現韮崎市)の布屋という屋号の商家に生まれた。一三が生まれた年の夏に、母親が 22歳で亡くなり、その後父親は実家に戻ったため、生まれたばかりの一三と姉は、叔父の布屋本家で育てられる。布屋は江戸時代の後半には上宿に本家、中宿と下宿に分家があった。製糸業、酒造業、金融業などを商っていた。布屋本家の当主は、一三の祖父の弟(大叔父)であった。5歳になった一三は、公立小学韮崎学校に入学する。当時は校舎がなく、蔵前院という寺で勉強した。

少年期[編集]

2年後に現在の韮崎小学校の場所に校舎が完成する。1885年(明治18年)11月に12歳で小学高等科を卒業した。

青年期[編集]

翌年、山梨県八代村の「成器舎」という私塾に入学。東京から優秀な教員を招いて英語・数学・国語・漢文を教えていた塾だった。ところが翌年、一三は腸チフスにかかり、成器舎を退学した。

1888年(明治21年)、自宅から笹子峠小仏峠、八王子を3泊4日かけ、東京の神田明神下の親戚の家に泊まる。2月14日福澤諭吉の面接を受け、その日のうちに入学を許可され、15歳で慶應義塾生になり、予科に入学した。

慶応義塾で勉学に勤しむ傍ら、塾寮の機関誌の主筆を務めたり、ある事件を題材にした小説「練絲痕(れんしこん)」を書き、郷里の新聞に連載される(1895年)などして活躍していた。また、寄宿舎に近い麻布に芝居町があったことから、芝居に興味を持ちはじめたのも学生時代だった。

1892年(明治25年)、19歳で慶應義塾を卒業する。

サラリーマン期[編集]

1893年(明治26年)新聞社への入社を希望したが、実現せず三井銀行に入行する。三井銀行では東京本店に勤め、大阪支店、名古屋支店、大阪支店、東京本店と勤務地は変わった。その間、結婚し子供が生まれた。

起業[編集]

1907年(明治40年)、三井銀行を退職し、家族 5人で東京から大阪に戻ったが、日露戦争後の不況で仕事がなかった。そのとき北浜銀行頭取の岩下清周から、国有化される鉄道の整理の手伝いを要請され、箕面有馬電気軌道株式会社(のちの阪急電鉄)創立の発起人(追加)となり、専務取締役に就任した。一三は池田から梅田までの路線沿線を住宅地として分譲販売し、分割払で売ることを考えた。鉄道建設の責任者となった一三は、事務所に泊まり込み、不眠不休で懸命に仕事に集中した。

1908年(明治41年)豊能郡池田町(現池田市)に転居する。また同年、日本初のPR冊子「最も有望なる電車」というパンフレットを発行した。

1913年、宝塚歌劇のもととなった宝塚唱歌隊を編成。翌1914年宝塚新温泉パラダイス劇場で、第一回公演を行った。

1918年、高収益の見込める阪神間の都市間輸送に進出し、箕面有馬電気軌道株式会社を阪神急行電鉄株式会社と社名変更(略称、阪急電車)。宝塚少女歌劇東京初公演。宝塚音楽歌劇学校創立を認可され、校長に就任。

1924年に宝塚大劇場を竣工。この後は宝塚新温泉パラダイス劇場の役割を宝塚大劇場が担うこととなった。
宝塚をレジャーランドにする構想は野球にも及びこの年に解散した日本運動協会を引き取って「宝塚運動協会」と改名して、プロ野球球団運営に初めて関わったが、昭和恐慌の影響で1929年に解散した。

1936年には、前年に結成された読売新聞社系の大日本東京野球倶楽部や阪神電鉄に刺激を受け、現在のオリックス・バファローズに繋がる大阪阪急野球協会を設立した。

老年期[編集]

1927年阪急電鉄取締役社長に就任。1936年に辞任した。また、1935年には欧米視察旅行にも行っている。

1937年、阪急電鉄の西宮球場開設。東京宝塚劇場社長を辞任し相談役になる。東宝映画株式会社創立。

1938年に第一ホテルが開業した。

1947年、株式会社東京宝塚劇場は東宝映画株式会社と合併し、社名を東宝株式会社へと変更した。京阪神急行電鉄の百貨店部門の事業等は阪急百貨店に譲渡。

1949年、京阪神急行電鉄の営業の一部の譲渡を受け、京阪電気鉄道株式会社を発足する。

1951年東宝相談役を経て東宝社長に就任。1955年に辞任する。

1952年に欧米映画視察旅行のため渡米。翌年、自伝『逸翁自叙伝』を出版。

1957年1月25日午後11時45分、池田市の自宅にて急性心臓性喘息のため急逝した。宝塚大劇場において宝塚音楽学校葬となっている。

人物・親族[編集]

  • 小林は鉄道を敷設して都市開発を進め、流通事業を拡充したが、その手法を五島慶太は手本にした[注 1]という。
  • 元テニスプレーヤーでタレントの松岡修造は曾孫(次男の孫)で、玄孫(修造の娘)は宝塚105期の稀惺かずと

関連項目[編集]

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  1. 但し、プロ野球球団は短期間で当時関連のあった東映に譲渡した。