小山田貞政
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小山田 貞政(おやまだ しきぶのじょう、永禄元年(1558年[1]) - 慶長5年11月13日[1](1600年12月18日))は、戦国時代の武将。甲斐武田氏、後北条氏、井伊氏、上杉氏、結城氏の家臣。名は貞政の他に正貞(まささだ)と伝わる(『保科御事歴』)。妻は保科正俊の娘。生母も保科氏の娘とされているため[1]、正貞の名乗りから「正」は保科氏の通字であるため保科姓を称していた可能性もある。通称は将監(しょうげん)[1]。息子に多門(長男)、伝四郎(次男)[1]。
生涯[編集]
最初は武田勝頼に近侍してその信任を厚く受け、小宮山内膳と共に「両天」と謳われたという(『三河物語』)。しかし天正10年(1582年)3月に勝頼が滅亡する際には早々に逃亡したと『三河物語』に記録されている。
武田家滅亡後は北条氏直に仕え、天正14年(1586年)に北条氏邦の家臣である猪俣邦憲が真田昌幸の沼田城に対して寄居を築いた際にはそれに協力して賞されている[1]。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐が行なわれた際には小田原城に籠もって虎口を守り、氏直から西之庄を知行として与える旨の約束を受けている[1]。しかし小田原城は秀吉に開城して後北条家は滅び、徳川家康の家臣・井伊直政、次いで上杉景勝、そして家康の次男である結城秀康に700石で仕えたという(秀康に仕えたのは息子とする説もある)[1]。
慶長5年(1600年)11月13日に43歳で死去[1]。法名は元政利貞居士[1]。
息子は秀康の後継者である松平忠直に仕えたが後年に忠直は改易され、長男は再度上杉氏に、次男は保科正之(家康の孫)に仕えた[1]。
貞政は晩年に小山田氏の嫡流を称しているが、これは事実ではなく庶流とされている[1]。