守山城 (越中国)
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守山城(もりやまじょう)とは、現在の富山県高岡市東海老坂にかつて存在した日本の城である。別名を二上城(ふたがみじょう)という。
概要[編集]
この城は現在の二上山の西峰、標高258メートルの頂上を本丸とした山城である。砺波平野を見下ろす要害の地であったらしい。
築城年代は記録などが曖昧ではっきりしないが、少なくとも南北朝時代にはこの城が記録から確認できる。建徳2年/応安4年(1371年)7月、南朝方の武将・桃井直常が石動山天平寺の衆徒と協力して、北朝方の越中国守護であった斯波義将の越中における拠点である守山城を攻め落としたという記録があり、これが記録上では初見と見られている。後に越中守護は畠山基国に交替しており、その際に畠山氏の家臣である神保氏が守護代として守山城に入城した。
畠山氏は越中に在国をほとんどしなかったので、神保氏が事実上の支配者として統治して威を奮った。しかし神保氏は越後国の上杉謙信に攻められ、天正4年(1576年)に落城した。天正6年(1578年)3月に謙信が急死すると、織田信長は謙信の死に乗じて上杉領に侵攻を開始し、その過程で神保氏張を守山城に入れて城主とした。信長が本能寺の変で急死し、豊臣秀吉の時代になると、天正13年(1585年)の秀吉の越中征伐で氏張は佐々成政と共に秀吉に降伏。秀吉は砺波郡・射水郡・婦負郡の3郡を前田利長に与えて、利長は守山城に入城した。
慶長2年(1597年)、利長は富山城を新たな居城にして移り、一族の前田長種が守山城代に任命された。元和元年(1615年)に江戸幕府が発令した一国一城令に基づき、廃城となった。
現在、山頂の本丸跡は千畳敷と呼ばれて一角に石畳が残っており、往時の面影をわずかに現在に伝えている。