地主
地主(じぬし)とは、家屋、アパート、マンションまたは不動産等の所有者である。そこでは、個人またはビジネス上の賃貸借契約が為され、借主は、借家人、居住者、店子等と呼ばれる。法人がその立場にいる場合もある。他の用語としては貸家人やオーナーがある。「女将」という言葉は女性オーナーに使うことができる。しかし、地主は、両方の性に適応する。
日本の地主[編集]
日本においては戦後、地価が高騰したため、「地主は大金持ち」というイメージが今でも強く残っている。多くの地主は、家主を兼任している。揶揄的に寄生地主の略称として使われる事もある。
日本の著名な地主は、本間氏、市島家、伊藤文吉、田部長右衛門 (23代)、堤義明など。
中国の地主[編集]
中国大陸の農村では、地主(土地主)は農地の所有者である。彼は土地を貸し出して農夫に耕作させ、協議に基づいて耕作物の何パーセントかの地代を徴収する。社会主義国家における土地の最終的な所有者は国家であるゆえ、地主(土地主)もまた国家に対して地代を納める。
ヨーロッパの地主[編集]
「en:Tenement (law)」も参照
ヨーロッパにおける地主は、ローマ帝国と荘園制度に遡ることが出来る。そこにおいては、農民は土地に束縛され、保護と正義のもと、地主の従属にあった。その封建制のもとでは、そのような関係は広く行き渡っていた。
ロシアの地主[編集]
ロシア革命以前の地主たちは、ツァーリ(皇帝)による絶対的支配のもと、ブルジョワジーとともに、権勢を振るっていた。最大の地主は、ツァーリ(皇帝)であった。地主たちは土地を独占的に所有しており、農地の全面積のうち4分の3は、有力な大地主が占有していた。当時のデータとして、ウラジーミル・レーニンによると、700人の大地主が平均して3万デシャチン[1]の農地をそれぞれ所有し、その面積は、60万人の小地主の3倍である。ロシア帝国を生きた文豪トルストイは、大地主であった。トルストイは、小作人とともに働き、貧困層に援助をしていた。
ロシア革命とソヴィエト誕生によりツァーリの絶対的支配体制は終焉したが、ソヴィエト終焉以後は、資本主義経済が組み込まれている。
アメリカの地主[編集]
アメリカ合衆国では、 財産権と契約に関する地主借主間の争議は概して、連邦法(en:federal law)ではなく州法(en:state law)の管轄である。州法と、いくつかの地域ではシティまたはカントリーの法律であるが、それらは借主に対する立ち退きの要件を設定している。賃貸期間の終了時、貸借関係は通例として理由なしで打ち切ることができるが、地主が借主を期間満了前に立ち退かせるための根拠は通例として限定される。地主がチャージできる賃料の上限を法で規定している市街がある。それは、レント・コントロール(en:rent control)として知られる。また、居住適正の黙示の保証(en:Implied warranty)というものがあり、それによって地主は、住宅を安全で規律があり住むのに適した状態に保たなければいけない。それは煙探知機や、ドアの施錠といった安全性の必要最小条件の処置である。
時々 「スラム地主」(en:slumlord)または「ゲットー地主」(ghetto landlord)という用語は、荒廃した都市の老朽化したビルのオーナーに言及する際に使われる。需要の衰えと不動産価格下落の結果として、それらの地主たちは、しばし不採算の不動産を完全に放置して、不動産の修繕と定期的メンテナンスの費用が払えない。多くのアメリカのスラムにおけるその状況は、とても悲惨である。ある地主たちは保険金目当てで自分のビルに放火して、有罪判決を下される。
ロバート・バーンズのポエム[編集]
地主と借主は、訴訟等に発展する関係にある一方で、スコットランドの詩人ロバート・バーンズ(1759年 - 1796年)によるポエムは、地主と借主の、あたたかみのある、相互の喜びを詠み上げている。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ Десятина(デシャチーナ)は、1918年まで使用されていたロシアの単位。1デシャチーナは1.0925ヘクタール。десятины(デシャチン)は複数形。
- ↑ Alexandria Burns Club "Tam o' Shanter - a Tale!"(英語)
外部リンク[編集]
- 信州の民家 地主・庄屋の家 林写真事務所
- 19世紀ロシア社会史のテクストとしてのA・エンゲリガルト『農村から』 一橋大学機関リポジトリ
- Art's Rentals.com(英語)