志賀直哉

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志賀 直哉(しが なおや、1883年2月20日ー1971年10月21日)は、日本の文豪。宮城県の出身。

人物[編集]

相馬藩の家老の家柄の裕福な家に生まれる。宮城県生まれで、二歳から東京で育つ。学習院高等科から東京帝国大学文学部英文科に進み、のち国文科に転じるが中退。大学時代に友人の武者小路実篤有島武郎里見弴らと同人誌『白樺』を創刊し、1923年の関東大震災まで続けた。「網走まで」が処女作とされる。父との和解を描いた「和解」や「母の死と新しい母」などの私小説もあり、私小説作家とされることがあるが、私小説ではないものも多く書いている。五歳下の里見弴とは精神的同性愛関係にあったが、里見が志賀を描いた小説に怒って一時絶交している。松江と伯耆大山は里見とともに遊んだ土地で、里見とともに吉原で遊蕩をしたこともある。最初の短編集は『留女』というが、これは祖母の名前を題名にしたもので、そういう短編があるわけではない。

路面電車に轢かれて怪我をし、城崎温泉で療養した時のことを描いたのが「城の崎にて」だが、これは以前は随筆扱いであった。「清兵衛と瓢箪」「笵の犯罪」「濁った頭」「クローディアスの日記」「赤西蠣太」など、多種多様な題材を用いている。「小僧の神様」からとって「小説の神様」と呼ばれることがあるが、志賀が神格化されたはじめは、大正5年ころのことである。

長編『暗夜行路』は、一部を「憐れな男」「謙作の追憶」として発表したのち、大正10年(1921)から『白樺』で連載を始めるが、長期休載している間に、世間では名作とされていた。完結したののは昭和12年(1937)である。最初の四分の一は私小説だが、残りはフィクションである。

1937年に帝国芸術院ができた時、谷崎潤一郎菊池寛は会員に選ばれたが志賀は選ばれず、不快に思ったので、41年に選ばれた時は断ったが、菊池が説得に来て、「本当なら僕なんかより先になっていなけりゃあならなかった」と言ったので受けたという。

里見弴とはのちに交際が復活するが、里見を「小説の小さん」と落語家にたとえて褒めたというのは戦後の「朝日新聞」記者の間違いから起こったことで、実際は里見が遊蕩児であることから、梅毒のため目が見えなくなった柳家小せんのことで「小説家の小せんになる」と言ったのが誤り伝わったものである。

志賀は敗戦後に、日本はフランス語を公用語にすべきだと発言して今日まで批判され、また少数の擁護を受けている。

住居を、我孫子、奈良などに移したことがあり、滝井孝作は、芥川龍之介の弟子だったが、志賀崇拝のあまり奈良に移転している。芥川は、志賀の「焚火」に感銘を受けたあまり、「筋のない小説」の崇拝者となり、谷崎潤一郎と論争をしたが、谷崎は志賀とは距離を置いて親しくしており、戦後一緒に文化勲章を受けている。

弟子には、網野菊阿川弘之藤枝静男らがいるが、戦後派の中村真一郎福永武彦らは、志賀を古くて駄目な日本文学の代表として批判した。太宰治も、志賀の敵対者で、志賀が太宰の悪口を言った座談会に反論したあとで自殺している。

だが戦後はほとんど小説を書かなくなり、戦後すぐ「蝕まれた友情」で、友人の有島生馬と絶交している。