大江親広

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大江 親広(おおえ の ちかひろ、? - 仁治2年12月15日1242年1月17日))は、鎌倉時代前期の武将鎌倉幕府御家人。父は鎌倉幕府政所初代別当大江広元長男多田仁綱の娘。妻は北条義時の娘・竹殿。兄弟姉妹に長井時広那波宗元毛利季光大江忠成尊俊藤原仲教室、高階惟長室、飛鳥井雅経室、中原師業室、藤原公国室、藤原実国室。子に上田佐房高元広時、佐広、藤原顕氏室。鎌倉幕府の京都守護。官位は蔵人・左近衛将監・遠江守・民部権少輔・武蔵守・式部少輔。正五位下[1]

生涯[編集]

はじめ内大臣である源通親猶子となり、姓を源と改めて源親広と称したが、建保4年(1216年)閏6月に大江姓に復した。父の広元が鎌倉幕府の重鎮であることからその嫡男として早くより重きに置かれ、第2代将軍源頼家や第3代将軍・源実朝の時代にはすでに将軍側近の地位にあり、建仁3年(1203年)には鎌倉薬師堂の寺社奉行に任命されている[1]

第2代執権・北条義時の娘を妻にしている関係から北条氏と親密な関係にあり、そのため江間親広とも称された。建保7年(1219年)1月に実朝が公暁によって暗殺されると出家して蓮阿と号す。2月29日に北条義時から京都守護に任命されて伊賀光季と共に洛中の警固を務めたが、承久の乱の際には後鳥羽上皇の呼び掛けに応じて幕府を裏切って上皇方として参戦した。近江供御瀬で幕府軍と戦うも敗走して帰京し、関寺のあたりを最後に行方をくらまし、所領の出羽寒河江荘に潜み、同地で承久の乱から20年後に死去した[1][2]

脚注[編集]

  1. a b c 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P97
  2. 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P98

参考文献[編集]