大村氏
大村氏(おおむらし)は、日本の氏族のひとつで、戦国時代の戦国大名。江戸時代には肥前大村藩主として明治時代まで続いた。
経歴[編集]
大村氏の祖は大村藩関係の史料では平安時代中期に海賊として暴れた事で有名な藤原純友の子か孫である藤原直澄が肥前彼杵に土着したのが始まりとされるがこの説は疑われており、実際は古くから大村郷に土着していた豪族であるとされる[1]。文治2年(1186年)に源頼朝から肥前藤津・彼杵の2郡の地頭職に任命された大村忠澄の時に大村一族はこの地に勢力を持った[1]。北条時宗の元寇の時には大村家徳・家直父子や大村七郎太郎らが勲功を立てた[1]。
南北朝時代では南朝に与して菊池氏に協力した[1]。大村家徳・大村家親の時には肥前北部に勢力を張る千葉氏を破って勢力を拡大したが、近隣の肥前有馬氏と激しく抗争し、応仁の乱の最中である文明6年(1474年)に大村純伊は有馬氏の攻撃を受けて敗走した[1]。6年後、勢力を盛り返した大村家は周辺の土豪を再びきり従えて勢力を拡大し、有馬家とも和睦した[1]。
天文7年(1538年)、大村純前は有馬晴純の次男を養子にし、この養子はそれから12年後に大村家の家督を継いだ[1]。これがキリシタン大名で有名な大村純忠である[1]。なお、純前には側室との間に男子があり、この男子は後藤純明の養子になって後藤貴明と名乗っている[1]。純忠は永禄4年(1561年)に開港して南蛮貿易を開始し、その2年後には受洗して日本最初のキリシタン大名となった[1]。その後も福田港、長崎港を開港して南蛮貿易を拡大し、さらに甥の有馬晴信と共に長崎周辺地域をイエズス会に寄進し、天正遣欧使節を欧州に派遣するなどした[1]。
しかし対外においては肥前で大きく勢力を伸ばした龍造寺隆信の圧迫を受けて一時は独立を失うまでに至る[1]。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで隆信が有馬・島津連合軍に大敗して戦死するとその支配から解放され、3年後の豊臣秀吉による九州征伐で秀吉に降ったため、豊臣政権下における大名として所領を安堵された[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて純忠の子・喜前は東軍に属して所領を安堵され、大村家は2万8000石の外様大名として幕藩体制下で生き抜いて明治時代に至り、子爵に列せられた[1]。
歴代当主[編集]
一族・家臣[編集]
- 大村純前
- 大村純直
- 大村忠豊
- 松原純照
- 大村尚純
- 大村純貞
- 大村純淳
- 大村良純
- 後藤貴明
- 大村純宣
- 大村純直
- 大村純栄
- 松東院
- 伊丹勝長
- 大村純真
- 大田原清勝
- 西郷寿員
- 大村純皓
- 熊野富包
- 三好富次
- 大村純将
- 大村純文
- 大村純鑑
- 大村純徴
- 大村武純
- 阿部正備
- 大村道純
- 高木正功
- 小出英教
- 大村孝純
- 植村家興
- 大村純一
- 大村純英
- 勝田直子