大友親家

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大友 親家(おおとも ちかいえ、永禄4年(1561年) - 寛永18年3月25日1641年5月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大友家の一族。父は大友宗麟で次男[1]。母は奈多鑑基の娘[1]。同母兄に義統。同母弟に親盛。通称は新九郎。官途は常陸介。別名に林新九郎、田原新九郎、田原常陸介、門司勘解由允、道勝、利根川道孝[1]。子に松野親英[1]

生涯[編集]

豊後府内の大友館で生まれる[1]。宗麟は親家を僧侶にするため寿林寺に入れたが、親家は僧侶になることを嫌って還俗する[1]天正3年(1575年)に臼杵の教会で受洗し、ドン・セバスチャンと称した。大友家の重臣・田原親賢養子になり、天正7年(1579年)に田原親貫が謀反を起こした際には宗麟の命令で田原家の家督を継ぐ事を命じられ、親貫討伐の総大将に任命された[1]。親家は海から国東郡を越えて東縄郷の鞍懸城を攻めて反対勢力を制圧した[1]。天正9年(1581年)から田原常陸介を称して加判衆になる[1]。天正12年(1584年4月に宗麟から志賀道輝らと共に領国の方針を「条々」として与えられている[1]

この頃、大友家は島津義久に押される一方で親家も筑後筑前に転戦しているが、事態は好転しなかった[1]。また親家のキリシタン信仰もこの頃には冷めていたという[1]。さらに親家は長兄の義統との間に軋轢が生じ、これが原因で島津義久に通じる始末であった[1]九州征伐後、その内通の罪を義統に咎められて殺されかけたが、宗麟の取り成しで所領の没収で許され、宗麟に身柄を引き取られて臼杵に移る[1]。この頃に門司勘解由允と改名し、豊前門司城や豊後富尾城などに移った。宗麟が死去した際には葬儀の執行を務めた[1]

文禄元年(1592年)から豊臣秀吉朝鮮出兵が始まると朝鮮に渡海する[1]。しかし翌年に大友家が改易されるとかつて大友家の家臣だった立花宗茂を頼った[1]慶長14年(1609年)からは豊前小倉藩主の細川忠興に仕え、利根川道孝と改名する[1]。慶長17年(1612年)に嫡子の親英が忠興から500石を与えられ、後に松野姓に改姓した[1]。寛永9年(1632年)に細川家が小倉から肥後熊本に加増移封された際には同行する[1]

寛永18年(1641年)3月25日に死去[1]。享年81。

法名は本地院殿小庵道孝大禅定門[1]。墓所は熊本泰雲山宗岳禅寺[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『戦国人名事典コンパクト版』 1990年、P185

参考文献[編集]

  • 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9