佐伯惟教
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佐伯 惟教(さえき これのり、? - 天正6年11月12日(1578年12月17日))は、戦国時代の武将。大友家の家臣。父は佐伯惟益。子に惟直、惟実、鎮忠。通称は太郎・紀伊介・紀伊守・宗天[1]。
生涯[編集]
惟教は佐伯家の第12代当主で、天文19年(1550年)の二階崩れの変の際に大友宗麟を奉じて府内を制圧した[1]。弘治3年(1557年)に伊予に渡って同国宇和郡の領主である伊予西園寺氏に仕えた[1]。永禄12年(1569年)に豊後に帰国して再度大友宗麟に仕え、元亀3年(1572年)に大友家と縁戚だった土佐一条氏の一条兼定を助けるために伊予宇和郡の西園寺公広を攻めた[1]。
天正6年(1578年)春、日向の土持氏を攻め降した[1]。同年8月、宗麟の命令で4万の大友軍が南下した際、惟教は先手を務めた[2][3]。惟教は島津方の山田有信が守備する高城を包囲し攻略に務めていたが、総大将格の田原紹忍との対立からの指揮系統の混乱、斎藤鎮実と吉弘鎮信の先陣争いを抑えられないなど大友軍は既に統率が乱れていた[3]。惟教は島津の後詰に備えながら強硬派を抑える自重策を唱えていたという[4]。
11月12日、島津義久軍の後詰に対して強硬派の田北鎮周が暴発同然に切原川を渡河し、これに続いて惟教の与力として属していた斎藤や吉弘らも渡河し始めたため、自重を唱えていた惟教も味方を見殺しにできないと出撃[4]。しかしこれは島津の罠であり、出撃した惟教は敗北して戦死した[1]。この際、嫡子の惟直も戦死したため、家督は惟直の子の惟定が継いだ[1]。
法名は指館前紀州大守竜徳天大禅定門[1]。