大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国

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国旗

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国アラビア語: الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى‎)は、かつて北アフリカのリビアに存在した国家。首都トリポリ。行政機関の一部をシルテに置いていた。1969年から1977年までのリビア・アラブ共和国も合わせて記述する。

アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合アラブ連盟、アラブ・マグレブ連合にも加盟していた。 

歴史[編集]

1951年に独立したリビア王国の国王でサヌーシー教団の指導者だったイドリース1世を、1969年9月1日、27歳の大尉ムアンマル・アル=カッザーフィーと同志の青年将校たちがクーデターで追放して、リビア・アラブ共和国が成立。なお、トルコに滞在中だった国王イドリースは退位し、共和国の最高政治機関である「革命指導評議会」を率いるカッザーフィーが事実上の元首となった。

1973年より、カッザーフィーはイスラーム主義社会主義やナセル主義に基づく国家を建設を目指した「文化革命」を開始し、「ジャマーヒリーヤ」という独自の直接民主制とし、全国人民会議の設置、『緑の書』の執筆などを進めていった。1977年3月2日には全国人民会議が「人民の権威の確立に関する宣言」を行い、リビア・アラブ共和国は廃止され「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」(1986年に「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改称)へと移行した。以後は1980年にかけて行政機構や経済システムの変革が行われ、共和国時代の一党独裁政党、革命指導評議会、行政機関、内閣、元首、憲法、私有経済などが廃止・解体されていった。

外交では、ソ連に接近して援助を受け、東側寄りの政策をとる一方、反欧米的な外交政策をとった。1970年代から1990年代まで欧米諸国を標的としたテロを支援したため、アメリカイギリスなどの欧米諸国と敵対した。1985年に発生した西ヨーロッパでの一連のテロ事件により経済制裁を受け、1986年にはアメリカ軍によって空爆されたが、その報復として1988年にパンナム機を爆破し、パンアメリカン航空103便爆破事件を引き起こした。このため、アメリカからはテロ支援国家に指定された。

このような好戦的な外交姿勢や、相次ぐ政府主導のテロにより、1992年にリビアは国連によって経済制裁を受け、1999年に経済制裁が解除されるまで経済の衰退が進んだ。

2001年同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとるようになり、2006年5月15日にアメリカ合衆国はリビアとの国交正常化を発表し、リビアはテロ支援国家指定から解除された。

一方、成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトし、アフリカ合衆国構想を掲げ、アフリカ連合内で主導権を握ろうとした。

2009年、国連総会アフリカ連合で、2010年にアラブ連盟で議長国を務めた[1]

2010年末より周辺国にてアラブの春が発生したが、リビアの体制は依然磐石とする見方もあり多くの日本人も現地駐在を続けていた。

2011年2月、カッザーフィーの辞職を求める反政府デモが発生。各地で武装蜂起した反カダフィ派リビア国民評議会に対して、革命指導者カッザーフィーやその二男で人民社会指導部総合調整官サイフ・アル・イスラームが直々にメディアに出演して反政府武装勢力の鎮圧を唱えるに至った。この結果、リビア軍やアフリカ諸国などからの外国人傭兵部隊によって首都を含む各地の反体制派への重火器攻撃が実施され、リビアはこれ以後約半年の間、内戦状態に陥った。

当初は反体制派が優勢だったものの、反体制派が主に傭兵で構成されていたのと、民衆の支持が得られていなかったことから、徐々に政権側が反転攻勢をかけ、一時は反体制派の拠点だったベンガジ進攻寸前にまで至った。しかし、NATO(北大西洋条約機構)を中心とした欧米諸国やアラブ諸国が反体制派を軍事的に支援したことで劣勢は回避され、しばらくこう着状態が続いた後、ミスラタを攻めていた政権側が撤退して以降、反体制側が勢いを盛り返し、8月23日に首都のトリポリが陥落したため、40年以上続いたカッザーフィー政権は事実上崩壊。カッザーフィー派はトリポリ陥落後も拠点をスルト(シルテ)に移し、リビア国民評議会との戦闘を継続していたが、10月20日に最後の拠点スルトが陥落し、カッザーフィー自身も死亡した。23日には、リビア国民評議会が全土解放宣言を行い、半年間続いた内戦は終結した[2]

脚注[編集]