海陵王
海陵王(かいりょうおう、1126年 - 1161年)は、中国の金の第4代皇帝[1]。姓名は完顔迪古乃、あるいは完顔亮(在位:1149年 - 1161年)[1]。
生涯[編集]
祖父は初代皇帝の太祖完顔阿骨打で、父はその庶長子である完顔宗幹[1]。母は大氏という[1]。海陵王は女真族ながら漢文化に対する理解もある教養人であった[1]。第3代皇帝・熙宗の時代に宰相に任命されるが、この熙宗が過度の飲酒が原因で精神障害をきたして人望を失ったため、1149年に自派を形成してクーデターを起こして熙宗を殺害し、自ら皇位に即位した[1][2]。
金は華北を制圧してから既に20年が過ぎていたため、時の流れから女真族が漢文化に傾倒して中国化するのはやむをえない状況だったが、海陵王は自ら女真族の風習や文化を否定して中国的な国家の建設を行なった[2]。1150年には中原統治機関として現在の河南省開封県)に置かれていた行台尚書省を廃止し、1156年に中書、門下両省も廃止して尚書省だけを統治機関にして皇帝の独裁権力を強めた[2]。1153年には首都を上京会寧府から華北の要衝である燕京(現在の北京)に移して中都と改名した[2]。こうして金の中国化を推し進める一方、皇室の諸王や女真高官を殺害して反対勢力を根絶やしにするなどの残虐性も秘めていた[2]。
海陵王は南宋の平定を計画するが重臣は反対する[2]。しかし反対を押し切って1161年に自ら南征に乗り出し、開封に進出して自ら揚子江まで押し寄せた[2]。しかし元々重臣の反対を押し切った無謀かつ強制的な戦争で戦果は十分に挙がらず、海陵王の留守中に金本国では西北の契丹勢力が反乱を起こし、中央では反海陵王派が挙兵して満州にいた東京留守の完顔烏禄を擁立したため、海陵王は戻るに戻れない状況に追い詰められた[2]。結局、揚州(現在の江蘇省江都県)の陣中においても海陵王に対する反乱が勃発し、その反乱軍を率いた完顔元宜により殺害された[2]。享年36。
没後、即位した世宗(完顔烏禄)により皇帝の資格は無いとして海陵郡王に降格され、さらに王籍も必要無いとして庶人にまで落とされた[2]。
人物像[編集]
海陵王は残虐な人物として張翼の『二十二史箚記』では「石虎、苻生、明帝、文宣帝、海陵王、朱元璋らもかなり殺を好む無道の君」と評されている。
宗室[編集]
海陵王は多くの女性・少女を強姦し、妾としたと言われている。
妻妾[編集]
- 皇后徒単氏
- 元妃大氏(母方従妹)
- 貴妃唐括定哥
- 蕭宸妃
- 耶律麗妃
- 麗妃唐括石哥(唐括定哥妹)
- 蒲察昭妃
- 昭妃阿懶
- 耶律柔妃
- 耶律昭媛
- 高修儀
- 才人南氏
- 唐括蒲魯胡只(唐括麗妃従妹)
- 蓬莱県主 (完顔重節)
- 妃花不如
子女[編集]
海陵王を主題にした作品[編集]
- 「私本・荒淫王伝」駒田信二著
- 「金虜海陵王荒淫」(作者不明)