利用者:竹中半兵衛タイプR/作業場2

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
竹中半兵衛タイプR/作業場2
画像募集中.png
画像の解説(画像がある場合のみ)
日付1560年6月12日
場所尾張国桶狭間
死者今川軍2250人、織田軍830人
原因今川義元による宣戦布告
結果織田軍の勝利、今川義元戦死
犯人今川義元
備考出陣する際、舞踊をしたりわざとを食べるペースを遅くしたり、熱田神宮にお参りしたりと何気に今川義元を待たせる様な事をし、最後は雨に紛れて休憩中の今川本陣を攻撃、信長の勝利となった。当時今川軍は25000人、信長軍はたったの3000人であった。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、1560年6月12日[1]尾張国桶狭間及び桶狭間山で、今川義元織田信長の間で起こった戦争である。

背景と戦前[編集]

織田信長は尾張で生まれ尾張で育ち、尾張にを持つ武将でった事は有名である。1534年、信長より歳が上の尾張周辺の大名家として、六角氏今川氏斎藤氏武田氏、国外逃亡したが土岐氏、そして将軍家足利氏などがあった。

六角氏は桶狭間の戦いから3ヶ月後に浅井長政によって滅亡は免れたが、当主六角久政近江国竹生島に追放したため急速に衰退した。今川氏は義元によって最も繁栄したものの、義元戦死後今川氏真が当主となるが、義元ほどの繁栄期は築けなかった。斎藤氏斎藤道三斎藤義龍斎藤龍興の3代に渡って続いたが、龍興が稲葉山城の戦いで戦死し、斎藤氏は滅亡した。武田氏は武田信玄により繁栄期を築かれたが、武田勝頼が家督存続し長篠の戦いに挑む前、勝頼が馬場信春の意見完全無視などして軽装で長篠の戦いに挑んだということもあり、武田軍は長篠の戦いで大敗、9年後に自害し武田軍は滅亡した。土岐氏は兄弟同士のいざこざを解消、しかしその後斎藤氏に攻められて国外追放された。将軍足利義昭も、槙島城の戦いで事実上室町幕府が滅亡したことにより、その後衰退した。1600年代、完全に足利家滅亡。[2]

戦い[編集]

今川軍が6月3日頃に出動し、桶狭間へと向かった。当時義元の居城、今川館から桶狭間までは約157kmという距離であった。信長は、義元軍が領地に侵攻してから戦いを知り、準備を始めた。[3]しかし家臣たちは、勿論うつけが義元相手に勝てる訳ないと思っており、誰もがそう信じていた。戦い当日、義元軍は桶狭間まで刻一刻と迫っていた。一方信長は、居城清洲城から出発して熱田神宮に向かっていた。勝利を祈願してお参りしていたのである。[4]今川軍はあまりにも遅い織田軍に待ちくたびれ、桶狭間山(正確には山ではなく山のような樹林)で休憩をしていた。ちょうど始めた頃に雨が降り始め、信長軍はその雨に紛れて今川本隊を攻め、戦いに勝利する作戦で行った。今川家はすぐに本隊だと分かられた。今川家家紋の入った布の様な壁を木の柱と繋いでいた為であった。この壁が分かりやすすぎて信長軍は休憩中の義元軍を攻撃、今川義元は戦死した。享年42。

義元死後[編集]

今川家家督を今川氏真が継ぎ、信長に服従。本能寺の変後氏真は京都に移住し、1615年に江戸で死去。

外部リンク[編集]

  1. [1]

脚注[編集]

  1. 1560年6月5日とする場合もある
  2. 義昭は鞆幕府という亡命政府を作り、1590年代に将軍職を辞職した為この年に室町幕府は完全に滅亡した。その後息子が家督を存続したが、足利将軍家の血が受け継がれる事は無かった…
  3. ただし入念にはしなかった。実はこの戦いは当時の現代技術ではなく工夫を凝らして戦う戦法を使用した為。
  4. 関係性は無いが、広島カープ広島護国神社に毎年勝利祈願のためお参りしているが、信長は戦いの当日の為かなりプレッシャーが大きかった事が分かる。