丹羽氏勝

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丹羽 氏勝
にわ うじかつ
別名 源六郎・右近大夫(通称)
性別
年齢 75
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生年月日 大永3年(1523年
死没日 慶長2年11月22日1597年12月30日
肩書き 織田家・家臣
国籍 日本国旗.png日本
配偶者 継室織田信秀の娘織田信長の姉妹)
子供 氏次氏重
補足 織田四天王の1人である丹羽長秀とは無関係。信長の姉妹を妻としている

丹羽 氏勝(にわ うじかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。尾張国岩崎城[1]

生涯[編集]

当初は信長の叔父・織田信次に仕えた。後に信長に仕えて、永禄12年(1569年)の伊勢国北畠具教攻め、元亀元年(1570年)の姉川の戦い元亀2年(1571年)の比叡山延暦寺焼き討ち、天正5年(1577年)の紀伊国雑賀攻めに参加している[1]

『寛政重修諸家譜』では「室は某氏の女、継室は織田備後守信秀が娘」とあるように、継室に信長の姉妹を迎えているため、信長から一門として重用された有力家臣のひとりであったが、天正8年(1580年)8月に重臣の林秀貞安藤守就佐久間信盛らと共に信長の命令で織田家中から追放された。この追放については理由が全く不明である。ただ、嫡子の氏次は連座の適用外でそのまま家督を継いで信長に仕えている[1]

天正10年(1582年)6月に信長が死去すると、子供の下に戻って余生を過ごし、75歳で没している。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c 岡田 1999, p. 245

参考文献[編集]

  • 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年ISBN 4639016328 
  • 『信長公記』
  • 『寛政重修諸家譜』