丹羽氏勝
ナビゲーションに移動
検索に移動
丹羽 氏勝 にわ うじかつ | |||||||||||||||||||||||
|
丹羽 氏勝(にわ うじかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国岩崎城主[1]。
生涯[編集]
当初は信長の叔父・織田信次に仕えた。後に信長に仕えて、永禄12年(1569年)の伊勢国の北畠具教攻め、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の比叡山延暦寺焼き討ち、天正5年(1577年)の紀伊国雑賀攻めに参加している[1]。
『寛政重修諸家譜』では「室は某氏の女、継室は織田備後守信秀が娘」とあるように、継室に信長の姉妹を迎えているため、信長から一門として重用された有力家臣のひとりであったが、天正8年(1580年)8月に重臣の林秀貞、安藤守就、佐久間信盛らと共に信長の命令で織田家中から追放された。この追放については理由が全く不明である。ただ、嫡子の氏次は連座の適用外でそのまま家督を継いで信長に仕えている[1]。
天正10年(1582年)6月に信長が死去すると、子供の下に戻って余生を過ごし、75歳で没している。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。
- 『信長公記』
- 『寛政重修諸家譜』